先月いっぱい、ブログの書き方ド下手問題と題して「ブログを投稿する」ということが如何に難しく厄介な試みであったかを語った。
ブログの投稿には本当に苦戦したのだが、一方で、文章を書くことそのものは(客観的な上手い下手はともかくとして)それほど苦手ではないようである。とりあえず、自分の中では他のあらゆる表現手段より文を書くのが自然で苦労のない選択だ。
とはいえ、何も意識せずにスラスラと書いているとかいうことではない。ひとつ気をつけていることがあって、今回はそのことについて書いてみようと思う。物書きでもないのにそういう話をするのは烏滸がましいようだが、自分の頭の中をメモとして書き留めているだけということで許されたし。
気をつけていることというのは、ずばり「思った通りに書く」ということだ。「なあんだ、月並みな」と思われそうなので念を押すが、厳密に「思った通りに書く」ということである。「思いつくままに書く」のではなく、「思った通りに書く」のである。「思い通りに書く」「自由自在に書く」「言葉巧みに書く」のでもない。真剣に、努力して「思った通りに書く」。
自由自在に書くのでも言葉巧みに書くのでもないので、これは「文章術」の話にはならないだろうと思う。人に文章術を説けるような身分ではないし、今回語るのはあくまで「思った通りに書くためにどうしているか」についてである。
「思った通りに書く」ということを一段階解体してみると、恐らく「どう思っているのか」+「どう書けば良いのか」の二つの軸があると言えるだろう。いきなり「どう書くか」を考えるのではなく、まず「どう思っているか」が肝心だ。
では「どう思っているか」とは何だろうか。そう問うと急に漠然とした感じがするかもしれない。このことを明らかにするには、むしろ「どう思ってはいないのか」と考えたほうが良いだろう。
例えば「赤いリンゴが好き」というのは、はっきりしているようで実は非常に曖昧な一文である。「他の赤ではないリンゴの赤さが好き」なのか? 「黄色や青ではない赤い種類のリンゴの味が好き」なのか? それとも「イラストなども含めて赤いリンゴという概念が好き」なのか? そのいずれの疑問も「赤いリンゴが好き」では解かれない。「赤いリンゴが好き」という一文は、「赤いリンゴが好きではない」という状態を否定してはいるが、それだけのことしか言えていないのだ。つまり、「赤いリンゴが好き」という一文から読み手が想像しうるものが大変に広くなってしまう。それは誤解の可能性の大きさと同じである。コメントされて「いや、そういうことじゃないよ」と答える羽目になるかもしれないし、それは「どう思ってはいないのか」を十分に表現しなかったことが要因になり得る。(単に読み手がよく読まなかっただけのケースもある。)
「赤いリンゴが好き」と言いたい時、では「他の何"ではない"のか?」ということを己に問わなければならない。その答えがすんなり出てこないならば、文意の曖昧さは日本語の問題ではなく、自分の認識自体が曖昧なのが原因であると言えるだろう。
次に「どう書けば良いのか」だが、これは実際のところ「どう思っているのか」を明らかにすることで半分は自動的に解決するように思う。
「どう書けば良いのか」と問うた時、解決すべきは「自分の中にあるイメージをどう表現すればそのまま伝わるのか」という問題であろう。これも「どうなのか」以上に「どう"ではない"のか」が大事であると言えそうだ。
例えば赤いリンゴについて言いたいことが「他の赤ではないリンゴの赤さが好き」ということだとする。「リンゴの赤さが好き」という話をするのなら、リンゴの赤のどの部分の話をしているのかを明確にする必要があろう。
高級な口紅のような深みのある紅が好きなのか
カラーそのものが好きで他のものでも同じ色なら好ましく思うのか
自然物らしく細かい濃淡によって複雑な色味になっていることに惹かれるのか
茎の根本のクリーム色へのグラデーションが好きなのか
果肉の仄かに黄色みがかった白との対比として美しく思うのか
これのいずれなのか、または複数もしくは全てなのかはわからないが、とりあえず当てはまるものをそのまま書いたならばそれでもうかなり細かく話をできていることになる。当てはまらないものは「こういうことではない」と書けばそれもまた文意の補強になる。(とはいえ、否定形で書く場合は読み手の気分を害する可能性を伴うことを想定するのが平和な書き物ライフのひとつの要と言えよう。)
もしかすると「そ、そんなに細かく考えたことない……!」と思われるかもしれないが、こういう「どの部分か」という掘り下げは「他のものではない」という切り分けによってさくさくと進む。自問さえできれば、「違う」と判定すること自体はそんなに難しいものではない。
そして正直に言うと、こういう自問自答は大抵「さあ書くかね」と思ってからスタートする。エディタに向かって書く過程で自分に問うのである。つまり常日頃そのように解像度高く生きているわけではない。むしろ、書くために自分を知る必要に迫られ、書くことで初めて自分を知るのだ。普段はボーっと生きているが、書く時にはボーっとしていられないから、書かれたものがそれなりに濃いものになっている。ある種のマジックである。何かしらの思いや考えがあるから書き始めたのにもかかわらず、書きながら「あぁ、私ってそう考えてたんだ」と知ることになるのは、書くということに誠実であろうとするならばごく普通に起こる現象なのだ。
ところで、「どう"ではない"のか」というのはどこまで問えば良いのだろうか、という疑問が当然生まれるであろう。細かく見ていけばどこまでも解像度を上げていくことができてしまうだろうし、逆にすぐ道が途切れて先に進めなくなることもある。
つまるところ、それは「何を言いたいのか」によって決まるものだ。赤いリンゴが好きだということについて本気で語りたいのなら上述のように突き詰めていく必要があるだろうし、ただ好きな果物を列挙する中で「黄色よりは赤いほうが好き」などと言うだけならそれ以上の自問自答は必要ない。記述が全体を構成する部品のひとつでしかないならあっさり通り過ぎても読み手が引っ掛かりを覚えることはなく、一方明らかに「赤いリンゴが好き」ということが記事の主題なのに情報が乏しければ「内容の薄い文章だ」と思われることもあるだろう。言いたいことを言い切れたかどうかが問題で、言い切れたかどうかを判定するには「何を言いたいのか」が定まっていることが必要である。
自分が「何を言いたいのか」がまずもってわからない、ということもあるだろう。表現を仕事や趣味にしていない人はそもそもそういうことは考えないで生きていくかもしれないし、それでも然程支障はないように思われる。それでも何か表現をしたいと思うのなら、自分で言語化できていないだけで自分の内には何か言いたいことがあるのだろう。
私の場合を言えば、「何を言いたいのか」というのは「何を蔑ろにされたら困るのか」とほぼ同義である。私個人にとって困る場合もあれば、私が生きているこの世界にとってそれは困ると言いたい場合もある。無理解の暴力による蹂躙に耐えられないから文章でバリアを張って、私や私が属する何か、私が好む何かを守らんとするのである。或いは、自分で何かを書いていかなければ私という存在が自分自身や世界にとって希薄になってしまうから、文章でもって私をこの世界に固定しているのである。このブログは基本的に後者を動機としているが、他の機会では前者を目的に発信することもある。
さて、「どう書けば良いのか」というのは「どう思っているのか」を明らかにすることによって半分は自動的に解決すると書いたが、もう半分のことも考えなくてはならない。ここまでは「自分がどう思っているのか」の話をしてきたが、今度は「読み手はどう思うのか」に思いを巡らすことにする。
ごく簡単な例を上げるならば、「赤い林檎が好きだ。」と「赤いりんごが好きなんですよね!」と「赤いリンゴってマジ尊い……。」とでは、文の意味としては「赤いリンゴが好き」でも文章の持つ意味合いとしてはそれぞれ違ってしまうだろう。読み手の中に結ばれる書き手の像が丸っきり異なっている。この例は名詞の表記と語尾を違えているだけだが、単語の差異に留まらず、フレーズや文単位でもどういう記述を加えるかで文章の総体としては全く違った存在になっていく。
そもそもこういったことはどうして行われるのか。ただ自分にとっての真実を書けば良いのであれば、書き言葉としてごく一般的で平易な表現をすれば良いだけの話である。「私は赤いリンゴが好きです。皮の赤みに高価な口紅のような気品を感じるからです。」と書けば、それでも一応ある程度の独創性を感じるであろう。万人がリンゴの赤さに対してそう感じるわけではないからだ。しかし、これでは何かが足りないような感じがする。例えば、これを書いた人間の雰囲気が全くわからない。本当に「思った通りに書く」ことが達成されているのだろうか?
他ならぬ私という人間が、他ならぬその対象に対して何かを思い、そしてそれをなるべく確実に読み手に伝えようとしている。そこには、
①このようなことを思った
②それを誤解なく書き表すならこうだ
③そしてこれを思ったのはこの私である
という三つの要素があるように思われる。「どう思っているのか」を突き詰めていけば、他の選択肢への道を排除することによって①と②の半分が解決するだろう。それでは②のもう半分と③はどうやって表現されるのか。それは謂わば「演出」であろう。
演出というと読み手の気分を操作するものという印象があるかもしれない。それももちろん含むが、ここで大事なのは「読み手の思考を順路に導く」ということだ。書き手の全く意図しないところに行かないように、順路はこちらですと表示すること。赤いリンゴの話をしていて「じゃあトマトも同じですよね!」などと言われたらば困るようなら、「私はどうしてかリンゴにだけこだわってしまうのだ。」とでも書けば「じゃあトマトも」とはならない。トマトの話をされるのを防ぐためにその一文を置いたのだとしても、読み手はそのようには思わずリンゴに対する思いの強さを演出するものとして解釈するだろう。あまりに直接的に可能性を断とうとするともはや演出ではなくなってしまうので、言葉選びには神経を使う必要がある。
単に赤いリンゴに対して思ったことをその通りに書くならば「他のものは一切無関係だ」という情報は不要なわけだが、もし読み手に誤解されたり意を汲まないコメントをされたりしたくないのならばそういった演出が要ることになる。読み手はそれぞれが自分の経験と知見に基づいて自由に想像を膨らませて読むのであり、書き手の意図がどうだろうがその意図を明示してくれなければ他の可能性を気ままに想起してしまう。もちろんそうした読み手の自由こそを重要視して敢えて如何様にでも解釈し得るものを表現する場合もあるし、加える演出の質は今書く文章について読み手にどう思ってもらいたいかに依る。
今の話は②をイメージしたものだが、③の表現についてもつまりは「読み手の思考を順路に導く」ことであると言えるだろう。私という人間の個性を表現したいという気持ちもないではないが、どちらかというと、自分の人物像を明らかにしていくことによって「この人ならこういう意味で言っているのではないか」という感想を導き、特定の解釈の可能性を高めるという意味合いの方が強い。「私はこう思った」ということを雰囲気全体で補強するわけである。全ての文に完全に誤読のない表現を徹底することは不可能であり、書き表しきれないところは「この人ならこうだろう」という推察に頼ることになる。そういう推察を読み手が必ずしてくれるとは限らないが、人物像を示しておくことによって、少なくともそういう推察をしてくれる人には誤解されにくくはなる。
また、プラスアルファとして個性的な人物像が持つ滑稽味を付与することもできる。例えば「真面目な顔して変なことを言っているぞ」というのは真面目さを予め演出しておかなければ成立しないことであり、逆にヘラヘラしたノリで書いていたのに急に量子力学の話を滑らかにし始めたら読み手は意表を突かれて笑ってしまうだろう。ただこれは技巧の領域であって「思った通りに書く」ということからは外れるので、これ以上は語らない。
この調子で「私はこう思ったのであり、他のものではない」ということを自問自答で追求しながら、不本意な解釈の可能性を断つように演出を加えて導いていく。その工夫を通して文章は自然と厚みと鮮やかさを増し、読む甲斐のあるものになっていくだろう。そう信じて書いていくのが私にとっての文章である。
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