先日の投稿自分のことを知っている自分になりたいに関してお二方に投稿いただきました。ありがとうございます!

「やりたいことリスト」から「自分を知る」ということに発展したわけですが、「自分を知る」ということにも色々な観点があるなと思いました。

私の中では「自分を知る」というのは、中島みゆきの「宙船」にあるような、自分に責任を持ってくれない人に自分という船のオールを任せてしまわないための、つまり自分の人生を他ならぬ自分で舵取りするための、自分に対する責務として捉えていました。なのでその文脈以外にはあまり想像が及ばなかったところがあります。これもまた、もしかすると世代的な前提があるのかもしれません。

翻って、富山さんがお書きになっているように、そもそも自分の持つ何らかの属性というのが自分の中に自然発生しているものかどうかというのは重要なご指摘と思います。

そもそも人は、好きなものや嫌いなものでさえも、真に自分のなかから生まれてきているのかも疑問です。いろいろな要件をもとに相対的にそれを選んだだけではないかと考えておりました。

その意味で、具体的に列挙できるかどうかにこだわってもしょうがないとは感じます。多分知るべきはこの「いろいろな要件」と、そうやって相対的に選ぶ基準の方だろうと思います。好きなもの嫌いなものそのものは自然発生ではないにしても、何らかの自分固有の基準があるから何かは相対的に選ばれるのだろうと思います。

定食屋に行って何かを注文しようとする、その時にどれも大好きとは思わなくとも、「なんとなく今日はこれにしよう」と思って、それに自分で納得できるかどうか。多分本当に「自分を知らない」となると、いつも値段の安さなどで決めることになります。安さで決めるのが悪いというのではないですが、安く済ませる必要もないのに他に基準がないからとりあえず安いやつ、みたいなことになると、なんとなく人生の彩度が下がるような気がしないではありません。

 

自分を知らないと言えるのは美徳であると思うのです

私は「空のように、大地の様にただそこにいるだけのものになりたい」と思います。と、こころを述べてみます。

これは「無為自然」的な境地かな、と解釈致しました(間違っていたらご指摘くださればと思います)

「ただそこにいるだけのものになりたい」という心持ちはわかるような気が致します。私は「自分を知る」ことは必要不可欠と感じていますが(自分自身に対して苦しみのない人は、無意識に自分のことを知っていると思っています)、それは「自分自身に執着する」ということとはちょっと違うものとして捉えています。むしろ、「ただそこにいるだけ」になるために、それを妨げるものを知る必要があるかもしれないという気がしています。何を脱がなくてはならないのかを知らずには脱げない、というイメージです。

例えば富山さんは、ご自身が「空のように、大地の様にただそこにいるだけのものになりたい」と願っていることをご存知ですが、それは自己に対する極めて重要な理解だと思います。

 

倉下さんのご投稿で少し笑ってしまったところがあります。

たとえば、私はうるさくしゃべる人間を苦手としていますが、もしかしたらチョーきれいな人だったら違った反応を返すかもしれません(十分ありえる)。そういう意味で、自分には未知なる領域があると感じているのです。

これは私にも覚えがあります。顔で許したという話ではないですが(笑)、全く別の観点で人間的に好きになった人が、それまで私が苦手としていた要素を色々と持っていて、諸々考えを改めることになりました。つまり偏見を矯正したと言えますが、どちらかというと、自分の「苦手」の解像度が上がったという方が感覚的には正しい気がします。一緒くたにしていた要素を解体したり、単体の属性ではなく複合的な要因だったようだと整理したり、という感じです。あるいは、苦手要素がどれだけあってもこの要素さえあれば全て受け入れられるという、謂わば自分の美意識の核を知ったということでもあると思います。それは自分の人生を明るくするために大切なことと思っています。

 

たぶん、「自分のことを知りたい」という気持ちは、一つには自分を把握し、完全に理解したい、というある種の支配欲求の側面もあるでしょうし、もう一つには私のような常に未知なる存在としてその対象を観察者として眺めたい、という側面もあるでしょう。

倉下さんはここで二つの側面を挙げておられ、確かにと思いました。いずれも自分を「対象」として見る見方かなと思います。

私はここに、「自分の人生の前提を理解する」という、土台的なイメージを加えたいと思います。ここに並べるものとしてどう表現するのが適切かはわからないのですが、好奇心や支配欲求以前の、「自分」という存在をスタートするのに必要なラインというのがあると思うわけです。「自分を見失う」ということを防ぐためのものと言ったらいいかもしれません。

どれほど自分を知ろうが「一切迷わない、一切見失わない」ということはあり得ないにしても、何がなんだか全くわからないという事態だけは回避したいものと思います。インターネットを見ても種々のフィクション作品を見ても、昨今はこういう観点で心理について語られることが大変増えたような気がしています。

 

「自分を知る」ということは、自分が自分であるからには必要なことであり、また自分を知ること自体が愉快なことであり(ただし時に痛みが伴います)、とはいえ全てを明らかにしなければと躍起になり過ぎてもあまり良いことのないようなものと思いました。

己に囚われないでいることは、己を知らずに済ませていることと同じというわけではないように思います。知らなくて良いことは知らなくても良い、知る必要があることは知る必要がある。当たり前に思えることですが、何を知らなくて良いのか、何を知る必要があるのか、それすらも自分を知らないとわからないという難しさもあります。

 

一つの起きている現象として「自分」というものを観察参与すること。そういう自分社会学は、素朴な知の営みですが、少なくとも最後まで飽きることがないという意味ではたいへん魅力的な活動です。

私もそう思います。そしてひたすら自分を観察しているということが、なぜか赤の他人にとって面白かったりするので、やればやるほど他の人も楽しませる可能性のある活動とも思っています。

 

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