tksさんの投稿を拝読しました。

「これまで私は自分の考えを書くといった言語化やそれを元にした発信をしてきませんでした。」という一文がちょっと信じられない質の記事で、トンネルChannelという場があることの意義が今まさに発揮されていると思いました。

 

さて、私自身漠然と「(今の自分からは大きくジャンプした先の)何かになりたい」という気持ちを抱いていました。

私はこれまで「何者」になりたいと思って生きてきました。ここでいう「何者」は何かしら特別な人間という意味での何者です。「何者」になると言っても具体的になりたい像があるわけでもありません。「何者ってなんですか?」と聞かれたら、「何者は何者です」としか言いようがない漠然としたレベルです。何になりたいのかはわからないけど、何かにはなりたかったのです。

まさにこの気分です。

今現在もそうかというと、全くそうでないというわけではないのですが、かつて苦しみと共にそう願っていた時と比べるとどうも質が違っているような気がしています。とりあえず今に納得できているわけではなく、もっとちゃんとした、あるいはもっと輝きのある人間になりたいという気持ちはありますが、なんというか、「まあそのうちなるんじゃないの」みたいな楽観があります。「まあなれなくてもそれはそれで」という気持ちもあります。つまり「苦悩」になっていないという感じでしょうか。過去に挫折で負った傷が深くてもはや楽観的にならざるを得なかった面もありますが、多分「漠然と」の部分が少しずつ解決したのだろうと思います。

 

「何者にもなれない」というのは「何もできない」とは違います。なので、自分は何者にもなれないと言う人があれこれなんでもできるということは珍しくありません。何ができようとも、何者にもなれないのは何者にもなれないのです。「何かできたところで自分よりすごい人はいるし」というのは、何者かになれない本当の理由ではないように思います。基本的に全ての人に、上には上が山ほどいるからです。能力的才能的に特別すごくなくとも、その人なりの「何者か」になって輝いている人はいくらでもいるのです。

そもそも、成功者的な存在を羨む気持ちがありつつも、自分が本当に成功者になりたいかというと実はそうでもないということがあります。商業的にバリバリやりたいとか、有名になって引く手数多になりたいとか、お高いアンティークに囲まれたセレブな暮らしをしたいとか、全然そんなことは思っていないわけです。「何者か」が漠然としているということはつまり、そういうギラギラした憧れはさっぱりないということを意味しているように思います。

 

私の中にあった、漠然とした「何者か」への憧れは、おそらく「自分をフルに活かせること」への憧れなのだと思います。キラキラ輝いている成功者は「自分をフルに活かしている(そしてそれが成功をもたらしている)」ので、眩しく見えるのです。

「何者か」になりたいと思って悩んでいる人が、単に金回りがいいだけの成功者に対して憧れを抱くかというと、あまりその構図は想像できません。そういうものに憧れる人は「何者か」ではなくストレートに「金回りがいい人間になりたい」と思う気がします。手段を選ばなくてもいいのなら、それならそれでやるべきことははっきりしてくるでしょう。

 

tksさんが記事内でお書きになっていることと関係しますが、私個人の体感としても、自分を活かしたいという気持ちにとって最大の脅威は「自分を活かしたけど大したことなかった」という結果に行き着くことです。そして「自分を活かしたけど大したことなかった」ということは、tksさんがツイートされているように、私たちにとって単に自意識の問題に留まりません。(私もtksさんと同年代です。)

tksさん: 「世代的には私は30代半ばなのですが、物心ついたときから不況で、競争に勝たなければいけないと思ってきました。一方で、ゆとり教育の初期で、成績評価が相対主義から絶対主義に代わったり、オンリーワンでいいよ的なことも言われたりしてきました。」 / Twitter

tksさん: 「このどちらも、何者にならなければというマインドに影響を与えた感じはします。競争に勝つために何者になる、オンリーワンになるために何者なるといったように。また、単純に外側より内側に向く性格的な問題はあると思いますが。」 / Twitter

熾烈な競争社会であることと、自分らしさが武器になること、これが合わさると、自分らしさが武器にならなかった時というのは社会での競争にも敗北することが決定づけられることを意味しているように思えます。そもそもこの世代は、不景気が常態化し上の世代からは「ゆとり(笑)」と揶揄され明るい未来など見えるはずもなく、余程のパワー系を除いては社会で生きるエネルギーというものが元から乏しい傾向にあったと思います。その中で個性が武器になるというのは「(高度経済成長期やバブル期のような)ガツガツするエネルギーがなくても生きていけるのかも」という希望であったように思います。

競争と自分らしさの話自体はそれぞれ別個のことだとは思うのですが、同時に押し寄せてきたことであり、事実自分らしさによって競争に勝っている人がたくさんいる時代なので、自分らしさが他と比して劣っている(ように思える)というのは生きていくにあたりかなり致命的であるように感じられるのです。その時見える将来像は、大方「自分はこの先自分をすり減らしてただ食うために生きるんだろうな」といったものでしょう。(この厭世的な捉え方はもっと上の世代からすると飛躍を感じて不思議かもしれません。)

 

少し脱線しましたが、ともかく「自分を活かしたけど大したことなかった」ということに対する恐ろしさは、自分を活かすという意味が曖昧なうちから抱える恐怖なので、自分というものをどう活かせるかも知らないまま、「自分を活かそうと思ったのに結局駄目だったら辛い」という気持ちに苛まれるように思います。とりあえず、私はそうでした。

そうなると、「自分を活かせそうなこと」ほどできなくなるおそれがあります。もしそうして大したことがなかったら耐えられないからです。その結果、わざわざ苦手な仕事をしたりして「そもそも活きるはずがないことだから失敗しても仕方ない」という保険を無意識にかけてしまったりもします。置かれた場所で咲きなさいという言葉がありますが(それもそれで尤もとは思いますが)、わざわざ咲きにくいところに自分を置いてしまう悲劇があります。「活かそうとしない」方が「活かしてみたけど大したことなかった」より一層損失は大きいと思うのですが、可能性が決定的に閉ざされる苦しみよりかは精神的にマシに思えてしまうことがあり得ます。

(自分らしさに於いてうまくいかない可能性ばかりを想像してしまうのは、自分の意見を表明することや対人関係などでうまくいっていない現実があったり、自分が他の人と違って変人だというネガティブな自己認識があったりするという問題もあるかもしれませんが、ここではひとまず置いておきます。)

 

「きっと何者にもなれないのだ」と思って燻ることには、自分を迷走させるポイントが少なくともふたつあるように思います。「自分を活かしていない」ということと、「自分の活き方がわからない」ということです。

このふたつは密接に絡み合っています。自分を活かそうとしてみなければ自分の活き方というのはわからず、自分の活き方というのがわからなければ自分を活かすことができません。「鶏が先か卵が先か」の類の問題です。

自分の活き方を苦もなく知る人はいます。たまたま好きでやったことや、たまたま無意識でやったことを誰かに見出されるということはあり得ます。でも多くの人はそうではありません。二十歳になっても誰にも特に何とも言われなかったので何が強みなのかさっぱりわからない、ということが起こり得ます。上の世代は私たちほど個性で勝負していないので、個性の活かし方を教えてくれる大人の存在は極めて稀でした。そうすると、それでも自分の活き方を知るためにはよくわからないまままずチャレンジしてみなくてはならなくなるでしょう。

ただ、大人になったならば闇雲に試すことは難しくなります。同時に、闇雲に試さなくても済むようになってもいます。自分で自分を見つめる力がついてくるからです。というか、もっと強く、「自分で自分を見つめなくてはならないのだ」と言ってもいいかもしれません。

自分を活かすとはなんなのか、それが曖昧だと中途半端に自分を試してプライドごと玉砕しかねません。自分を活かすというのは恐らくかなりピンポイントなことです。例えばですが、「文章を書くのが得意」みたいなことは漠然とし過ぎていて、それだけを支えに生きようとすると重ねなくていい失敗を積み重ねる可能性が高そうです。何に対してどこから光を当ててどういう文体で何を書き出すのが得意か、まではっきり見えてはじめて「自分は文章を書くことで自分を活かせる」という確信を持てるのだと思います。

もちろん、自分と対話したからといってすぐさまそれが見えるとは思えません。「これか?」「こっちか?」と思いながら、自分のセンサーが反応しているものをいくつか試すうちに確信に辿り着くものと思います。そしてその確信が持てた時、実際にはまだ客観的に高い評価を得られていなくとも、「これが私にとっての『何者』だ」と信じられるのかもしれません。

(対話がうまくできず、あるいは社会の需要とあまりにも合わなかったために、結局どこにも辿り着けないということもあるでしょう。食べていくためにはいつまでものんびり自問自答してもいられません。しかし、「自分は何者にもなれない」と信じ込んでいる人の割合よりは、対話や環境次第でどこかに辿り着けるはずの人の割合の方がきっと多いと私は信じています。)

 

もしその確信によって「何者かになりたい」「何者にもなれない」という苦しみから解放されるのだとすれば、「ここではないどこか」に自分の心を向けさせている最大のストレス源は、自分の「何者でもなさ」そのものよりも、「自分が何になりたいのかわかっていない」という曖昧さなのかも、と思いました。私たちはそれを思い描くことを強いられましたが、その難しさについて教えてくれる人はいなかったのです。

そしてこのことは、「職についていること」「肩書きがあること」「家庭を持っていること」など、かつてはそれだけで自他が納得できたはずのステータスが、ある世代より後に於いては、それだけでは個性に関わりないがために大きな意味をなさなくなった、という価値観の不幸な転換を意味しているのかも知れません。家庭ができたから「何者か」になるのを諦めた(必要なくなったのではなく「諦めた」)、ということはごくありふれたことと思います。

 

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