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Notion日誌:自己不在の不安が私を「データベース」に憧れさせた
ここ数ヶ月、Notionを生活に取り入れている。必要に迫られてのことではなく、「見た目が綺麗だと嬉しい」「ピックアップが楽だと嬉しい」というようなふわっとした動機でごく個人的な情報を扱っている。期待しすぎることもなく、また「服に着られている」かのように「ツールに使われている」ということもなく、ちょうどよく活用できているように思う。
そういうわけで具体的にどう使っているかを書こうかと思ってエディタを開いたのだが、その前に失敗談について一度まとめておく必要が(私の人生に於いて)あるだろうと思ったので、そちらから先に書くことにする。
Notionとうまく付き合っているのはここ最近のことだが、Notionと出会ったのは二年以上前の2019年のことで、noteにもNotionに関する記事を書いたことがある。当時はまだ無料版にかなりの制限があり、別に仕事に使うでもなかった私は課金するほどの動機づけがなく、最初から様子見のつもりではあった。学べるところは学んでおこうというくらいの気持ちだ。
そうして触ってみたのだが、これがまあなんとも使い方が下手くそなのである。構造がどうこうの問題ではなく、データベースのためのデータベースばかりを作ってただただ時間を溶かしていた。データベースにできそうなデータがあるからデータベースにしよう、というノリの産物でしかなく、データベースが完成した暁にはどう活用するつもりなのか自分でもわからなかった。また、同じことをその後Airtableでも繰り返した。
時を遡るが、データベースというものを初めて扱ったのはまだ大学生の頃だった。その時は必要に迫られてOfficeソフトのAccessを使っていたのだが(やっていたのはごく簡単なことで、データベースの機能を十全に活かすスキルを身につけられたわけではない)、そうしてデータベースなるものに触れたことによって、当時の私は漠然とした希望を感じた。すっきり整理すると先が見通せて適切な判断を下すことができる、一目で網羅できないようなこともデータベースがあればたちどころに把握出来るようになる、というような希望である。
今となってはそんな希望は幻でしかないことは当たり前にわかるのだが、当時はデータベースが放つ全能感に強く惹きつけられ、一方でデータベースの仕組みを今ひとつ掴めない文系思考人間の自分に無能感を募らせていた。私の中でデータベースという概念はコンプレックスとともにあった。コンプレックスによって惹かれ、惹かれることでコンプレックスが強化されていった。
別にデータベースの概念を仔細に理解し扱うことなどできなくとも、それで人として無価値ということにはならないと思うが、自分の無能ゆえに魔法の杖を手にできないという心境にあった私はパソコンを開くたびに「本当はこんなにも馬鹿だったのだ」と自分に落胆していたのである。その評価が覆る日を夢見ていたが、そもそもデータベースが力を発揮するには曖昧過ぎるものをデータベースソフトで扱おうとしており、恐らく実現しようもないものを求めていたように思う。
私はどうしてデータベースというものに希望を見出し憧れを抱いてしまったのか? そこから考えなくてはならなかったのだが、しかしそれを冷静に考えられるようになったのはごく最近のことである。具体的には今年の春くらいであった。逃げて目を背けていたというより、データベースに憧れを抱いていたこと自体が恐らくおかしかったのだと思い至ることがそれまでなかった。
個人的な話になるので詳細は省くが、以前の私は四六時中正体の見えない不安に襲われていて、自分というものがなく、自分で何かを選択するということがおそろしく難しかった。今でこそ「私は私の好きなようにやるんじゃー!」とばかりに自己を前面に押し出しているが、前までは例えば自分が何色が好きで何を食べると幸せかというようなことすらもわからなかった。制服を着て範囲の決まっている勉強をしていれば生きていけた高校生活の終了とともに、その日何を食べるかという些細なものから将来を左右する重大なものまで無数の選択に迫られる日々になり、私の人生は瞬く間に困難に満ちたものへと変貌した。人との繋がりの有無で言えば孤独ではなかったが、とにかく自分自身がわからないのである。自分自身がわからない結果、人と深く意気投合することは難しく、精神的に満たされたこともなかった。開示する自己がないのに意気投合も何もない。
そんな中、全貌がわからない事物を網羅し解析を助けるデータベースソフトに触れ、「私の内面もこうなったら自分のことがわかるかもしれない」と私は感じたのだろう。ひとつひとつデータを集めて入力していけば、いずれ自分のこともそこに分析可能な対象として顕現させられるのかもしれないという希望を見出した。Accessまで使わずともExcelにデータを作っていこうと試みたことも幾度となくある。結局のところデータベースのことはよくわかっていなかったが、私が持っている全てのデータをデータベースとして自分の外に構築することによって、私が抱えている全ての問題を解決してほしかったのである。しかし毎度挫折するから「幾度となく」試し直すことになったわけで、その試みはついぞうまくいかなかった。
データベースにデータを入力していったところで、そこにある情報にどうアプローチして何を分析するかは自分で検討して決めなくてはならないが、自分自身のことがわからず霧の中を手探りでよろよろ歩いている人間にそんなことができるはずもない。そしてそもそも自己のデータベース化が私を救ってくれるべくもない。失敗は必然である。実際ずっと試み続けることもできずやめてしまう期間はあったが、しかしそれは「うまくやれない」という挫折感に疲れてのことであって見当違いの努力に気づいたわけではなく、愚かにも気力が少し回復し次第間歇的に再挑戦していた。
これは多分無意味な試みなのだ、と察したのは上述のAirtableを弄っていたときで、ある日ふと「そうするほどのデータを持っているわけではないよね」と思い至った。そういうことをする必要がそもそもないんじゃないかと急に冷静になったのだった。
私は自分の自己不在に対してデータベース化以外の観点でも解決を図っていて、幸いにもそちらは功を奏し、2019年ともなるとデータベースというものの引力は憧憬とコンプレックスの残滓でしかなくなっていた。Notionを使い始めた時にはまだその残滓に惑わされていたが、Notionを有意義に使えない自分を責めるほどのことはなく、「なんか他にないかな」というライトな理由でさっさとAirtableに移ることができた。自己の内面が安定したことによって漸くデータベースに対する執着は解かれたのである。
NotionもAirtableも使い方がわかりやすく、自分の無能感を刺激しないということも呪縛からの解放に貢献しただろう。使おうと思えば使えるが、使うほどのことはないのではないか、と客観的に考えられるようになったのだ。誰でも使えるほど簡便でデータベースツールとして優秀であることによって、逆に使わなくても大丈夫だと心置きなく離れるに至った。
今ではこう書き表すことができるが、この一連のことについて「こういうことだったのだな」と整理がついたのは、Airtableを離れてから更に一年以上経ってのことである。
このようなおかしな闘いの年月を経て、今は普通に「こういう情報がほしいからデータベースを使うと良さそう」という判断によってNotionを活用している。つい何でもかんでもひとつのツールに託そうとする悪癖は例に漏れず発動したが、それはデータベースだからというのではなく、ツールを新たに活用し始めた時に毎度発症する持病である。この病との付き合いもいい加減長くなってきており、この頃は数日のうちに「ですよねー!」と言いながら軌道修正し、落ち着くところに落ち着いていくようになった。
自分の経験からしても、人生の経緯によってデジタルツールにかける期待というのは違ったものになるだろう。アウトライナーの使い方ド下手問題の最後でも書いたことだが、種々のデジタルツールとの悪戦苦闘の中に、自覚が難しい自己の問題が潜んでいる、という実感が私にはある。データベースなるものとの苦闘は長かったが、こうして振り返ることができるようになったことを私は素朴に喜ばしく思っている。
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