これまで2回に分けて書いてきた、「構造ノート」とはなんであるか、という話をまとめたい。

 

 まず経緯を整理しておく。

  • Obsidianと縁の深いメソッド「Zettelkasten」の実践にあたっては、「構造ノート」の作成が勧められる。

  • 「構造ノート」の存在意義を、以前私は「自分の問題意識に基づいて複数のノートを構造化し、文脈を与えるため」と表した。

  • しかしその表現が不十分で実用的でないと自分で気がついたので再考しようと思った。

 そして①~構造作りは自動化できない~では以下のことを書いた。

  • 構造化は「探し集める・仕分ける・言い表す」の繰り返しでできている。

  • 構造化は自動的・機械的にはできない。

  • その工程は「対象を通して自己を綿密に怠りなく観察すること」と言える。

 次に②~文脈には前提・操作・根拠が必要である~では以下のことを書いた。

  • 文脈とは、単独の語・フレーズ・文で表現できない意味合いのことである。

  • 構造ノートとは、文脈を保存するものである。

  • 文脈の保存には「前提の整理・情報の操作・根拠の明示」の工程が必要である。

  • 文脈の保存とは、自分として生きることそのものである。

 

 以上のことを振り返り、「構造化」と「文脈の付与」のふたつの観点を統合しながら「構造ノート」とは何かを考え直してみよう。

 まず定義としては、「何らかの前提に基づいて複数のノートを集め、操作を加えて適切に配置し、その操作の意図を明示することによって文脈を保存したもの」と言い換えられそうである。前提の第一のものとして、当初の表現に用いた「自分の問題意識」がある。

 そしてその実践のためには「対象を通して自己を綿密に怠りなく観察すること」が必要となり、そうやって構造ノートを作っていくことはつまり「自分として生きること」そのものではないか、ということである。

 毎度新たに構造を考え直すのは非効率に感じられることから、一度うまくいった構造は次回以降も流用したくなるかもしれないが、そのまま使いまわそうとすれば「構造に当てはめるために情報の文脈を作る」という主客転倒が起こりかねない。ゆえに如何に大変であっても、フォーマットはヒント程度に留めてあくまで自己の観察によってその都度構造を構築していく必要がある。

 そのように自己を言語化することは認知資源を大きく消費するものであり、到底すべてに対してそれを実践することはできない。そこで、私はこれに取り組むのだという意識を持って対象を選択する必要がある。その選択と実践が「自分として生きること」であるように思う。

 つまり構造ノートというものは、情報の理解に貢献するに留まらず、自己を観察し、自分として生きる場として重要な意味を持つのである。

 

 構造ノートについてはひとまず以上です。

 

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