「カード式アウトライナー」の話を何度か書いたが、デジタルツールについて「カード的である」というのは私の中でどういうことをイメージしたものなのか一度整理したいと思う。

 

 カードと呼ばれるものには様々な種類があると思うが、ツールの話をするにあたっては私は基本的に「情報カード」を指してカードと呼んでいる。梅棹忠夫『知的生産の技術』の京大式カードや、川喜田二郎『発想法』に登場するタイプのパンチカードなど、手に持って扱える大きさだが名刺などよりはずっと大きく、ある程度丈夫で一枚ずつ分離しており、更に日付や分類、出典などのメタデータが上や端に記録されるものだ。カードと言った場合に単に「紙片」のイメージだと「こざね」や「付箋」的なものも含む可能性があるが、ここではそういったものは除いて考える。

 また前提として、カードに書かれる本文というのはある程度細かい粒度のものになる。紙面に実際に書いた時に、上述のサイズの中に収まる程度の情報量ということだ。デジタルツールで再現する場合にはそのサイズに囚われる必要はないし、もう少し大きい規模になってもいいが、とはいえ何万字もの情報を一単位に詰め込むことは想定しない。一枚のカードにはひとつの話題、というやり方を継承するものとする。

 

 ところで、パソコン上にある「ファイル」にはコンピューターが自動で生成した多様なメタデータが付与されているが、ユーザーにとってはファイルは必ずしも情報カード的であるとは限らない。例えばtxtファイルを開いたとき、その中身にはファイルに付与されているメタデータは存在しないわけで、自分で記入しない限り人間が認識できるメタデータが画面内に表示されないのだ。情報カードで言うならそれはカードの裏面にメタデータが書いてある状態のようなものかもしれない。

 ということで、見た目の形状が紙片状であり、本文は比較的小さなサイズに収まっており、本文以外に何らかの情報を持ち、且つ目線をついと動かすだけで本文以外の情報を直ちに確認できる状態をここでの「カード」とする。そして「カード的」とか「カード風」とか言った場合にもこの性質を満たしている状態を指しているものとする。

 

 カード法は本文を小さい単位で作ることで「操作」ができるようになることが大きなメリットになる。ただ、情報カードの強みはそれだけではなく、カードそれぞれに本文の文面そのもの以外の情報を付与することが、カードを何かしらの文脈に位置づけることを助けているように思われる。

 カード単位に分けてしまうということは元あった文脈から切り離せるということだが、「元々はどこにあったか」に戻ることができなければそのカードの持つ意味合いは大きく減じてしまうようにも思う。

 文章そのものに込められる意味の規模や正確さというのはたかが知れており、「どういうつもりで書いたのか」を文脈が支えることで短い文章が無限の広がりを持てるのだと思う。何の文脈も添えられていなければ、解釈が定まらないので如何様にもその文を使うことができてしまうが、そうなるともはやその文章でなくても良くなってしまうだろう。

 もちろん「文脈の付けかえ」が大きな威力を発揮することは多々ある。そもそも、メタファーというのはそういうものであろう。全く異なる文脈に置いてもなお意味が通じるところがあるということが、物事の理解を劇的に深める魔力の源だろうと思う。それと同様に、異なる文脈にあった言葉が別の文脈に進入した瞬間には強力な化学反応が起こることがある。しかしそれは、メタファーというものが「本来の意味」を保持しているがゆえに生きてくるように、進入させた言葉の「本来の文脈」をいつでも呼び出せるからこそではなかろうか。

 

 文脈というのはそれ自体は全てを言語化することが不可能なもので、いくつもの言葉や体験からイメージとして自分の中に生まれてくるものであると思う。作者が長文を通して読者の中に再現しようとした文脈は、読者がそれをほぼそのまま取り込めたとしても、読者の中ではそれだけが文脈になるわけではない。

 よって、後から文脈を取り戻したい時、文脈そのものを予め書き添えておこうというのは無謀である。少なくともカードの本文に伴う文脈というのはカードの端にはおよそ書ききれない規模のものだ。しかし、文脈のイメージそのものではなく文脈のイメージを復元するトリガーならば、ある程度短い言葉で書き留めることができる。

 例えば出典と章タイトル、書き留めた日付、自分の中でのカテゴライズ、他のカードとの関連性。それらがカードの端に記録され、且つ「一度に目に入る」ことによって、文脈のイメージの緒(いとぐち)が、カードの中心にある本文の周りに保持されることになる。しかしそのイメージの緒は文脈そのものではなく、鎖のように本文を縛ることはない。くっついているのは「いつでも引っ張れば文脈を呼び出してくれる紐」であり、それらは本文と一緒に動くことができる。

 

 これまで、文を部分的に取り出す時には「文脈を記録しなければ」という気持ちが強くあった。そのために文脈を要約するにはどうしたらいいかと考え、それがうまくできないことをもどかしく思っていた。それもそのはず、文脈というのはそもそも要約できないものであろう。要約するために「言い換え」をしてしまうと、かえって元のイメージに戻りにくくなることもある。

 しかし文脈を切り離してはいけない。よって、現実的に書き留められるようにコンパクトにする必要がある。その時、「圧縮」しようとするから駄目だったのだと思う。やるべきは「圧縮」ではなく「トリガー化」だ。その文脈を呼び起こせるならば、文脈そのもののあらましを言語化していなくとも構わないのである。

 前々から情報カード的な役割のものには日付や出典などを書き添えてはいたが、ただ「書くべきだと聞いたから書いた」という域を出ず、その情報に意味を乗せられていなかった。その日がどういう文脈の中にある一日なのか、その本はどういう文脈の中で読んだのか、更にその記述はその本の中のどういう文脈の部分だったのか、それを復元する術がなかったからである。

 複雑であることが必然的な文脈というものは、トリガー化の繰り返しによって、文脈そのものの複雑性はある程度保ったまま「扱える形」にまとめていくことができそうだ。単純に言えば、言語化できる範囲で言語化したものに名前をつけ、それを集めたものにまた名前をつけ、そしてそれを集めたものに名前をつけ…ということである。

 やるべきは「要約」ではなく「名前をつける」というのがポイントである。それも「うまい命名」の必要はなく、単にまとめた中身を取り出せればいい。プログラミングに於いて関数につける名前が下手でもプログラムの動き自体には何の支障もないのと同じだ。まとめた中身を自分でイメージできないのはよろしくないが、中身がある程度イメージできるならその命名が他人の目から見て巧みである必要はない。

 

 そうしてトリガー化した短い文言をカードの端に書いておけば、そこから復元し得る大きな文脈と繋がりを持ちながら(出自の曖昧さに不安を募らせることもなく)、しかしその文脈を出てどこへでも旅をすることができる。

 この「トリガー化の繰り返し」が自然と行われるのがScrapboxなのだろうし、意識的にやりやすいのがObsidianのようなツールなのだと思う。

 それらのツールを上手く使えばそれで十分だと思うが、私自身は、自分の癖に合わせて、文脈をトリガー化しやすく且つトリガー化の結果が確認しやすいようなツールを作ろうと試みている。(そうしようとしていたのだとこれを書きながら気づいた。)

 つまり、単に文の断片化ではなく、この全体を指して私は「カード的にする」ということをイメージしている。これは「リンク」や「ネットワーク」の概念を必然的に含むが、「繋がりを持たせる」というだけでは今考えている「カード化」の営みの全体像はイメージできなかった。誰が見ても明らかな表現というのは思いつかないが、とりあえず、自分の中ではこれが「カード的」の意味だと定義しておこうと思う。

 

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