アウトライナーを適切に使えない要因として自分の中に以下の二点の理由がある、という話の続き。

  • 「きちんとしている感」に負けている

  • 「倉庫」として使おうとしていた

 前回はアウトライナーの「きちんとしている感」、分解すると「箇条書きという形式の引力」と「ツールの洗練された見た目」から来る要因を書いた。

 今回は理由の二つ目、「『倉庫』として使おうとしていた」ということについて考えていこうと思う。

 

 「倉庫」という二文字には、これまた二つの意味合いが含まれている。一つは「大量に詰め込まれる物置き」、もう一つは「きちんと保管される場所」ということだ。つまり、「情報の種類が雑多で量が多い」、そして「情報がエネルギーを失い静的になっている」という二つの状態を示している。

 こう書いた時点で、既にアウトライナーの使い方がド下手なニオイがぷんぷんしている。自分で書いていて「私はなんと愚かな!」という気分になってくるのだが、我慢して言葉にしていくことにする。

 

 如何にもまずそうなのが「情報の種類が雑多で量が多い」という状態だが(要するにゴミ屋敷化である)、こちらは少し置いておいて先に「情報がエネルギーを失い静的になっている」という状態の方を考えていきたい。

 結論から言えば、アウトライナーというのはあくまで「動的」でなくては固有の特性が有効に働かず、静的に落ち着いている情報は(アウトライナーでの管理が不可能ではないにしろ)他にもっと適したツールがあるのではないか、ということになる。

 それはそうなのだが、ならば「動的」と「静的」の境界はどこにあるのだろうか。

 アウトライナーにアイデアを書き溜めていくと、後から見返した時の思考の再現性に不安を感じることがある。書いた時にそこに込めたかったイメージを、自分自身が完全に思い起こすことができない事態が発生するのだ。無論それはアウトライナーというツールのせいではなく、全て思い起こせるように書いていない自分に問題がある。

 なぜ再現性を保つように書けていないのか。それは文脈を示す情報を削ぎ落としてしまっているからである。

 作家の構想が箇条書きのまま本になることはないように、人に情報を伝達するには必ず「肉付け」をしなくてはならない。たとえ、読者が作った読書メモが結果的に作家のアウトラインとほとんど似通った形になるとしても、作家と読者の間には周到に肉付けされた文章が必要である。肉付けとはつまり文脈である。もう一歩突っ込めば、文脈とは「他の解釈の可能性」を断って読み手に一本の道を確実に歩かせるものと言えるように思う。

 作家と読者は明確に他人であるが、よく言われるように過去の自分と未来の自分ももはや別の人間だと思っておいた方が良いだろう。時が経てば過去の一点と未来の一点の思考の状態に連続性はなくなる。そうなると、アイデアを活用するのが未来の自分ならば、予め十分な肉付けをしておかなければならない気がする。

 日記が面白いのは、そこに文脈が保存されているからである。むしろ文脈こそを保存したいと思って書くものだから、後から読んでもその時の状況と感情を鮮やかに再現して追体験することができる。一方日誌は、それだけでは文脈を持たないことが多い。事実は書いてあるが、それに対して当時何を感じたのか、今何を感じればよいのかが判らない。漠然としていて、つまり解釈の可能性が広すぎるのである。

 それならば、アウトライナーに何かを書き連ねていった時、そこにあるのは日記的なものなのか、それとも日誌的なものなのか。

 ところで日誌はなぜ文脈を欠きがちなのか。

 それを書こうとすれば主観が混じらざるを得ず、客観的な資料にならなくなるからだろうか。内容によってはそれもあり得るだろう。しかし実際には、文脈を意識的に排除しているというよりも、文脈を記す必要を感じていないから書いていないだけではなかろうか。昨日も一昨日も明日も明後日もおおよそ同じ空気の中で生活するならば、わざわざ「今どういう状況か」を書き記そうとはしないだろう。

 今ここにある文脈は言わずもがなのものであり、それを網羅的に言語化するのは億劫である。ひとつの環境に居続ければ、対比させるものがなく(ぱっと思いつかず)、絶対的な尺度で描写しようとして疲れ果てる。「一年前と比べてみよう!」「前の職場と比べてみよう!」「理想像と比べてみよう!」という問いを用意してもらえれば筆の動きも滑らかになるだろうが、そういう問いの必要性を認識していなければ自力では思いつきにくい。

 

 さてアウトライナーである。

 何かを思いついて書き込んだ時、それを思いついた土壌の説明はその場でいちいち書き添えない。そうしないことでスピード感を維持できるのであって、文脈の言語化に意識を割いてしまうとその分だけ「まさに今動かしたいもの」を動かすためのエネルギーを奪われることになる。そして「まさに今動かしたいもの」はアウトライナー上には常に存在していて、文脈の言語化に取り組むタイミングはなかなか来ない。

 文脈を欠いた情報は、時が経てばそれを再解釈するという手間を生じさせる。すると、自由に動かして活用することが困難になる。つまり、その情報はもう「動的」ではなくなる。過去のいつかの情報をただ保存しただけの「静的」なものになってしまうのである。動かすことができない情報にはアウトライナーで扱う必然性はない。

 しかしながら、文脈を明らかにするための情報をごちゃごちゃと添えた場合、それもまた動きを鈍らせる可能性がある。アイデアは異なる文脈にワープすることが少なくない。その時アイデアに添えられた文脈をどう扱うかで悩むことになる。書式の工夫などの解決策はあり得るが、ノイズはなるべく少ないほうが良いだろう。ルールでどうにかしようとすると、そのルールを忘れた時にまた困ることになる。動かし方に悩んだ時にはもう「静的」な情報に変わってしまっているのである。「動的」であるためにはアイデアたちは身軽な方が良い。

 すなわち、文脈を欠いたままのアイデアはやがて「動的」でなくなっていくが、その一方で文脈がくっついたアイデアもまた「動的」でなくなる可能性がある。

 そもそもなぜ文脈を書く必要を考えるのかと言えば、そのアイデアを活用する主体に「未来の自分」を想定しているからである。「今の自分」は頭の中に当然のものとして今の文脈を流れさせているが、「未来の自分」はそれを失っている。

 なぜ「未来の自分」を想定するのか。それはアウトライナーのそのページを、未来の自分も使うものと考えているからである。糠床のように毎日手を加え、育て、味わい続けることをイメージしているのである。いつの間にかそうしようと指向していたが、それは当たり前のことなのだろうか。

 決して、糠床的に使うことの是非をどうこう言いたいのではない。それが成り立つように使えたらそれが良いに違いない。しかし私はそう使えないらしいのに、何故かそう使おうとしていたから下手だったのである。

 つまり、私はアウトライナーをもっと「今」のものとして捉えるべきだった。

 アウトライナーは、まず第一に「今」考えているものを即座に捕捉して保存してくれるものなのである。「今」書かないと永久に失われかねない着想を、不意の強風に飛ばされる前にキャッチして目の前に固定してくれるものなのだ。

 そうして可視化されたアイデアたちを、「今」の文脈が自分の頭の中に当然のものとして流れている間に――個々のアイデアに文脈を書き添える必要など生じないうちに――上下左右に動かして形を作っていく。「今」考えるべきことをアウトライナーで構成し、速やかに決着をつけてしまうのだ。

 使い道が見いだされないまま「今」の範囲から漏れて置き去りになるアイデアは、文脈を失ってしまう前に書き添えてきちんと保管する。状態としては一度「静」になってしまうが、いつでも「動」に復帰できるようにセッティングするのである。保管用のファイルまたは区画をアウトライナー内に作っても良いだろうし、私は別の場所の方が感覚に合うので例えばObsidianに保存することになる。

 以上のことを一言でまとめるならば、個々の情報を動的に保ち続ける工夫に労力を費やすのではなく、情報を扱う場であるアウトライナーをこそ動的に保つという意識を保つ必要があった、ということである。

 

 さて、アウトライナーの使い方がド下手な理由その二、「『倉庫』として使おうとしていた」ということのうち、「情報がエネルギーを失い静的になっている」という状態について考えた。「情報の種類が雑多で量が多い」ことも一連の話ではあるのだが、これについてはまた次回書くことにする。

 

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