ここまで私がアウトライナーを適切に使えなかった要因を書いてきたが、まとめ直すと以下の通り。

  • 「きちんとしている感」に負けている

    • 箇条書きという形式の引力に負けている

    • ツールの洗練された見た目に負けている

  • 「倉庫」として使おうとしていた

    • 情報がエネルギーを失い静的になっている

    • 情報の種類が雑多で量が多い

 前回、「情報がエネルギーを失い静的になっている」という失敗体験に対し、アウトライナーは「動的」に保ってこそアウトライナーであり、つまり「今」作業するためのものとして使うのがよかろう、という話をした。

 今回は「『倉庫』として使おうとしていた」問題の二つ目、「情報の種類が雑多で量が多い」ということについて考えていきたい。要するにゴミ屋敷化である。

 

 そもそもの話だが、アウトライナーが倉庫的な見た目をしているだろうかと考えると、とてもそうは思えない。一方EvernoteやScrapboxなどは「ここに全部突っ込むぞ!」と思いたくなるし、それを実践することによって自分だけの宝物庫が出来上がっていくことにもなる。(とはいえ、EvernoteやScrapboxなら何でもかんでも突っ込めばいい、というわけではない。宝物庫にしたいなら集めるべきは「お宝」なのである。)

 アウトライナーはどう見ても倉庫っぽくないのに、どうしてかたびたび倉庫化してしまったのだが、それは一体なぜか。

 ひとつには、「網羅する場所」としてアウトライナーを選択してしまったことがあり得る。ごく短い文や単語の階層化は、リスト化や分類に使えるような気がするからだ。

 例えば「いつか読みたい本」の情報をアウトライナーに収めようとしてしまったことがあるし、そしてそれは当然のごとく失敗に終わった。フォルダ管理でよく言われるように、何かの配下に何かを置くタイプの管理形態では複数属性に対応できず「こうもり問題」が発生するし、項目の順番を変えても何の化学反応も起こさないものをアウトライナーで扱う必然性はない。もちろん、どのツールでどう網羅していくかを検討する過程にならアウトライナーは力を発揮するだろう。(とはいえ、これについては「アウトライナーでは不可能」という話ではなく、諸々の工夫やツール愛によってどうにでもなるものではあるように思う。)

 もうひとつの原因として、「一度使った情報をとりあえず目につくところに置いておく」ということの繰り返しで情報が塊魂(かたまりだましい)のごとくごちゃごちゃとくっついて溜まっていくパターンがある。作業台の上に物が溜まるのと同じである。

 それが起こる理由は、まず適切な場所に収めにいくのが面倒ということがある。使ったハサミが机の上に置かれたままになるのは、そうしておきたいのではなくてただ面倒だからだ。しかしそれだけが作業台を塊魂にする要因ではない。

 単に買い集めた物が開封もされずに部屋の隅に積み上がっていくのとは違って、自分が使った、見た、読んだ、思いついた、といった「体験」と結びついた情報は、自分の「今」と分かちがたいもののように私は感じている。よって即座に仕舞い込んでしまうことはせず、しばらく近くに置いておきたいのである。またすぐ使うかもしれない、見たくなるかもしれない、関連するアイデアが浮かぶかもしれない、そういった気分によって、視界の端に「待機」させてしまう。

 何しろ、その体験は大概何かしら気分がよかったり刺激的だったり知見を得られたりしたわけで、さっさと「済んだもの」にしたくはないのである。それぞれの「正しい場所」に移動してしまうと、自分の今日や昨日がバラバラに分解されてしまったような気持ちにもなる。(バラバラにしないために必要なのが日記だが、その話はここでは割愛する。)

 

 もう一歩踏み込んでみよう。使った情報を近くに置いておこうとすること自体が直ちにゴミ屋敷に繋がるわけではない気がする。情報はすぐさま「正しい場所」に配置できるものではないし、配置先を模索する過程を手助けしてくれるのがアウトライナーであり、その決着がつく前の状態がゴミ屋敷化の元ならばアウトライナー≒ゴミ屋敷になってしまう。ゴミ屋敷的でないアウトライナーは当然あり得るはずである。

 ここで今日のテーマを確認するが、私が感じている問題は「情報の種類が雑多で量が多い」ことである。「量が多い」はともかくとして、どうして「種類が雑多」になってしまうのか。

 端的に言って、アウトライナーに書き込む対象の範囲が広すぎるのだ。日記や日誌を兼ねてしまうなら、広く「自分」のことを書いている状態と言えるだろう。「自分」を対象にするというのは、もはや「宇宙」を対象にするも同然である。

 しかしながら、それが誤りであるとは言えない。自分という存在と向き合って付き合って生きていきたいのなら、どこかで「自分」を対象にして思考を出力したり情報を集めたりしなければならないし、その場としてアウトライナーを使ってはならないわけはない。考え出せば無限に連想ゲームが続いていくような状態を記録するにあたって、アウトライナーの形はその思考の拡張性ととても相性が良いものに思える。

 しかしそれをそのままにしておけば、自分の思索の集積が自分の認識可能範囲を超えたサイズになり、収拾がつかなくなる。どこに何があるのかが次第に曖昧になっていく。検索機能は便利だが、そのためにはワードがわからなければならない。兎角「自分」が対象の思考は抽象的になりがちで、同じことを言い表すにあたっても全く違う言葉で表現してしまうことは多々あるし、ずっと後になってから「これとこれは要するに同じことだった」と気づくようなこともある。

 また、対象の範囲が広いということは、具体的な行動が絞られないことでもある。何かの行動を成すために考えるのではなく、知るためや把握するために考える場になっている。ゴールが無いのである。連想ゲームが無限であるのは、ここで終わりという区切りが存在しないからに他ならない。

 行動を目的としない思考というものは、単発で大量に並ぶと手に負えないからと扱いやすいサイズにまとめていこうとした時、結局形式的に分類することになりがちである。形式的に分類された思考がそこから自由に膨らんでいくとはあまり思えない。

 執筆にアウトライナーが有効に働くのは、「これを伝えるには」という具体的な目的が先にあり、そのための行動(=文章づくり)を考えることを補助するからだろう。そこには「文章の完成」という終わりがある。アウトライナーに書き込まれたアイデアたちがそこで命を失うわけではないが、きちんと区切りをつけた範囲に置かれているアイデアはそこにどっしりと腰を下ろしており、無限の連想ゲームで私を振り回すことはほぼなくなる。もちろん、別の場所に植え替えればそのアイデアが再び理不尽なほど生き生きと動き出すことはあり得るだろう。

 アウトライナーで扱う対象の範囲が広すぎるという問題に対して、やれることはとりあえず二つある。まず範囲をひとつの目的に従って絞ることだ。このことを実現したい、この記事を書きたい、この物語を完成させたい、そういった願いに対して思索を広げ深めていくことに集中する。範囲を狭めることで、前回書いたように思考を「動的」に保つことも自然に達成されやすくなる。

 もう一つは、そもそも特定の行動に繋げようとする目的が存在しないこと、例えば毎日のログを取るとか、自分とは何かを考えるとか、主に記録と分析のために使いたい場合である。そういうものについては、自分のためのレポートを作ったり仮説の検証という形にしたりといった仮のゴールを設けることが有効ではないかと考えている。自由に書き込む場とは別に、GTDで言う週次レビューのためのアウトラインや、「私にはこういう傾向があるのではないか」というような仮説を立てて答えを出すためのアウトラインを作るのである。ただ、イメージを共有するために例を挙げはしたが、大事なのはどんなアウトラインを作ればいいかではなく、「どこかで切り取って現時点でのケリをつける」ということを常に意識することである。

 私は具体的にどうしたかと言えば、「自分」という対象についての思索はアウトライナーではなくObsidianに任せることにした。しかしObsidianの中でも箇条書きを多用していて、思考する上での基本的な流れとしてアウトラインを作っていることには変わりはない。違うのは、ツールの見た目と(これが実に大事なのである)、ページ間リンクの存在である。それについては別の機会に書くかもしれない。

 そしてアウトライナーでやっていることは、主に「人に見せる文章」の構想である。そのようにひとまず明確に用途を絞ることが、私にとってアウトライナーと仲良くなる第一歩となった。

 

 ところで、前回(②)と今回(③)の記事を書くにあたって、記事にするに足るだけのアウトラインを事前にアウトライナーに作った。が、ほとんど無視して全然違うことを書いてしまった。記事の中で表現したかった気持ちや本質的な結論は予定と実際で変わっていないが、それを表現するルートが全く違ってしまったのだ。(①は概ねアウトライン通りに書いた。)

 「仲良くなる第一歩となった」などと書いておきながら、やはり私はまだアウトライナーの使い方がド下手なのだろうか――ということについて、次回書くかもしれない。(あるいは別の話になるかもしれないが、とりあえずもう少し続くはずである。)

 

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