こちらの投稿までのお二方のやり取りに関連して、やりたいことリストについて。

 倉下さんとBeckさんはそれぞれ異なる層の問題意識を持っていらっしゃるようにお見受けしました。このシチュエーションなら自虐的な気分になるであろう、とする価値観が世の中に存在し、その価値観に囚われる人に寄り添い柵を跳ね除けようとする気概と、その価値観をつい当たり前かのように書いてしまうことでそれが流布することに加担してしまわないかという懸念がある。そう勝手に解釈しましたが、どちらも尤もと思いながらお二方の投稿を拝読しました。

 

 さて、最初の倉下さんのご提案からは少しずれますが、「やりたいこと」を挙げていくという行為について自分の経験を書いてみようと思います。過去に遡って自分語りすることになりますがご容赦ください。

 

 私は今でこそ「自分の思うところを言語化する」ということに並々ならぬ熱意をもって注力していますが、成人するくらいまでは全くもってそれができていませんでした。自分以外の何かのことはわかったように生意気に語っていた一方で、自分のことは何もわからなかったのです。

 どのくらい何もわからなかったかというと、ある機会に「好きな食べ物は何か」と問われて固まってしまうくらいには何もわかっていませんでした。ごく他愛のない質問でもってコミュニケーションを図ってくれたその相手にちょっと申し訳なくなりましたが、それ以上に、そんなこともわからない自分と直面して激しく動揺したことを覚えています。

 もちろん、好きな食べ物は何か、などという「なんてことのない」問いの存在をそこで初めて知ったわけではありません。幾度もそういう問いかけを自分にする機会はあったにもかかわらず、それらを巧みにスルーして二十年だかの歳月を過ごしてしまったのです。そしてたまたま、一対一での会話という無視する術のない状況に置かれてその問いと向き合うことになり、目を背けていたことに気がついたわけです。

 

 そこで気がついたことは、「好きな食べ物がわからない」ということではありません。「私は自分のことが何もわからない」ということです。「食べ物すら」わからないのです。気づいてしまうとそれはとてつもない衝撃でした。そしてもちろん、「やりたいこと」もわかりません。

 二十歳の自分にとって、その時点で「やりたいこと」がわからないのはかなり致命的なことに思えました。ぼんやりしていて自分の将来が見えなかったので、そのことが自分を苦しめているということには薄々気がついていましたが、自分の実態を直視するといよいよ絶望的な気分に支配されました。

 「やりたいこと」だけがわからないのならまだいいのです。まあ何やりたいかはわからないけど自分はこれができてこれが嫌いだから進めるのはこういう道かなー、と考えていけばいいからです。でも私は「何も」わからなかったので、私という存在をそこからスタートさせなければなりませんでした。

 

 そうしていろいろな領域について自分の好悪や関心、価値観、特性を明らかにしようと試みる日々が始まりました。

 これがものすごく大変でした。己について考えることが苦痛というわけではありませんが、考えても出てこないので、自分が自分をわからないという現実と直面させられ続けるのです。単に自分の思いをキャッチできていないのか、それとも自分はそもそも空っぽなのか、その判断もつきません。

 ただ、それまで何かを見た時には「良いなあ」とか「これ好きかも」とか感じていたはずだ、ということを頼りに、「単にキャッチできていない説」を信じてずうっと自分を眺め続けました。今もまだ続いています。これまでの感じだと、Beckさんが仰るように「単純に思い出せないだけ」だなと私も思います。

(ついでに自分の個性の領域の話をしてしまいますが、この「キャッチできなさ」というのは、今にして思えば「無い」どころかむしろ一度にいろいろ感じ取り過ぎてしまっていたせいのような気がしています。刺激が多いのでいちいちキャッチしていられないのです。「おっ」と思っても、次の「おっ」がすぐに発生するので、「おっ」と思うこと自体が自分の中では日常的になり過ぎていたのかもしれません。)

 

 話を戻しますが、こうやって自分のことを自分に問うて答えを見つけるのは容易なことではありません。費やす意識の絶対量というものが必要な気がしています。意識を向けた状態で時間を着々と過ごしていくということです。

 私は二十年ほどさぼっていたので、毎日少しずつ健全に意識を向けていた人たちとは大きな差がついています。他の人が「今日はこれにしよう」と簡単に決められることを、私は簡単には決められません。今は大分マシにはなりましたが、若い時期に後れを取った分が縮まることはないでしょう。

 

 本題の「やりたいことリスト」の話に移ります。

 「やりたいことリスト」というものを見た時、後れを取ったタイプの人は「そうか、そういうリストを作るといいのか」とそこで初めて思うかもしれない一方で、自分に関心を強く持てていた人はそんなリストの存在を知る前から自分なりにリストアップしていたのではないかと思います。

 そしてそういう人も、短時間にリストに書き出したというよりは、ずっと地道に更新し続けていて(それは頭の中で行われたことかもしれません)、ただ意識を向け始めるのが早かったから若いうちに既に充実したリストが出来上がっているのでは、と思うのです。自己(あるいは社会の中に生きる自己像)に興味を持って長い時間を費やしたかどうかです。

 

 やりたいことが少ないのはつまらない人間か? という問いを立ててしまうと、私としては「やりたいことの種類やそれに対する思いによりますよね」という結論に至らざるを得ませんが、「自分のことを知っている自分」と「自分のことを知らないでいる自分」とで比較するなら、「知らないでいる自分」の人生は「知っている自分」よりつまらなそうに思えます。

 私自身の話をすれば、自分のことがわからなかった時の自分の日々はとてもつまらなかったと思います。無理して面白いかのように自分に言い聞かせて生きていましたが、それはどう見ても面白い人生ではないでしょう。今面白がっているようなことのほとんどを、当時の自分はよくわからなかったのです。

 

 倉下さんとBeckさんの文脈からは離れますが、「やりたいことリスト」について私が思うことは、「思いつかなくて悩む自分」や「無理してひねり出している自分」よりは「確信をもってこれが一覧だと言える自分」の方が、自分という人間が取りうる状態の中で、より面白い状態にあるのではないか、ということです。

 そしてそういう状態に至るためには、単に「やりたいこと」に留まらず、自分全体に対して意識を向けた状態で相応の時間を経過させることが必要だとも思っています。仕事で自分に課せられた役割がシビアだとそれも大変になってしまうでしょう。

 

 自分自身の思いをキャッチできるのはアンテナを張ってからだと思います。アンテナを張り、そしてそこにそれがかかってくるまで、どれだけの時間を要するかはわかりません。

 でもまあ、死ぬまでにひとつでも多くわかれたらいいな、というくらいで良いのではないかと思っています。いくつ書き出せているかより、「自分は何にテンションが上がるんだろう?」「自分は何をやれたら良い人生だと感じるだろう?」と考えて何かが引っかかるのを待ち構えられているかどうかの方が大事だなと感じます。

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