こちらの投稿を読みました。(読んで考え始めてから随分経ちました。)

「現在のリスト」と「未来のリスト」が区別されない、「現在のリスト」の中に「未来のリスト」が含まれてしまっている。これは私も身に覚えがあり、インボックスがごちゃごちゃになる大きな要因とも感じています。

 

しばらく考えていて、かなり前にちょっと関連することが話題になっていたのを思い出しました。

たいていのリストはEphemeral Listである - Unnamed Camp

「もやもやしているリスト」は、実際は、「2021年n月m日にもやもやしていたことを書き出したリスト」である。

この一文に当時たいへん刺激を受けました。

「もやもやしているリスト」の中には、もやもやしていると言うだけあって大抵「これから処理しなければならないもの」がたくさん入っているわけです。その意味で意識としては未来を向いているので、感覚的に言うと「未来のリスト」として作っていることになります。

しかし、「もやもやしているリスト」を作る理由は「今もやもやしていること」を明らかにするためです。そこに入るものをこれから処理するのかどうか、どう処理するのかは置いておいて、まず「今もやもやしていること」は何かを知らなければならないから作るリストなのです。

一方で、もやもやを全部洗い出そうとするならばリストを作り終えるまでそれなりの時間がかかってしまうので、「今」を瞬間的に捉えることはやや難しくなってくる感じがします。そうなると時間感覚が前後に伸びてしまい、究極的にはもやもやしているものが全部解決するまでアクティブなリストとして考えてしまうことにも繋がります。

 

冒頭のご投稿にて、

GTDで洗い出したものは行為として実行するコミットメントは持ちません。一方でプロジェクトの行為として書き出したものはコミットメントを要求します。前者は、それが何であれ気になることをただ書き出せばいいだけであり、そこから「じゃあどうするか」を考えるのは次のステップです。

とお書きになられているように、「今もやもやしていることを洗い出すこと」と、「もやもやを解決するために必要なことを考えること」は別の次元の話だろうと思います。

言い換えると、「事実」と「想像」の違いとも思います。想像というのはこの場合「事実」ではないという意味で、願望や計画、予測などを含みます。

「自分は今こう思っている」ということを「自分は今この時点ではこう思っていた」という「事実」として解釈する習慣がなければ、時間的に過去の時点で既に確定したことだけを「事実」と捉えてしまい、「自分は今こう思っている」ということが「想像」としてのみ扱われてしまうように思います。結果「現在」の視座が曖昧になり、「今」の話を「未来」として考えることと混在させてしまうのではないかと感じます。

「現在」は、言うなれば「事実」と「想像」の汽水域であり、それらを繋げる場であるとともに(なにしろ何かしらの行動を取れる――つまり何かを「事実化」できる――のは「現在」だけと言えるでしょう)、そうやって繋げてしまうがために、切り分けるのには「どう見ても終わっていること」「どう見ても先の話」というような客観的な明らかさを求めがちなのかもしれません。

 

上述の「2021年n月m日にもやもやしていたことを書き出したリスト」という言い回しを見た後、私は「スナップショットを撮る」ということを考えました。デジタル的な意味での現状保存としてのスナップショットです。

撮ってしまうわけですから、その後それは動かして運用していくわけではありません。リストを「もやもやしているリスト」として考えると常に「現時点でもやもやしているもの」になるように改め続けることになりますが、「○○時点でもやもやしていたリスト」はその先に改める必要はありません。というか、「思い出したから足した」「わかりやすいように整理した」という以外のことで手を加えてはいけないでしょう。事実の記録ではなくなるからです。

インボックスは文字通り「箱」のイメージを持ちますが(つまり対象そのものがそこに入っている)、スナップショットには「箱」のイメージはありません。「写真」であり、実体を持たないのです。写っているものはそこにあるわけではありません。

デジタルなツール上では、箱としてのリストもスナップショットとしてのリストも同じ形をしています。スナップショットとしてのリストもスクリーンショットで本当に画像化するなどしない限りはいつでも編集可能なままです。

しかし、項目を移動可能・処理可能なものとして捉えてしまうと、それは「未来のリスト」としての性格を持ってしまいます。これから先の時点で操作するつもりがあるということなのですから「未来のリスト」にならざるを得ません。

 

となると、「現在」をインボックスという箱的イメージの中で(箱的イメージのままで)扱うことがもしかしたら混乱を生むことにも繋がるのかも、とも感じます。

「洗い出しと判断」を切り離すこと

箱とスナップショットという言い方をしてきましたが、「洗い出しと判断」の切り離しを実践するにあたっては要するに「○○時点」という発想を明確に持つことが重要なのかもしれません。

「洗い出す」ということに、具体的に「いつ」をつけること。「洗い出し」という表現はよく聞きますが、そこに「いつ」をどれだけ意識するかはそれほど語られていないような印象を持っています。

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