こちらの投稿に関連して。

いつもはっきり目標を立てることはしませんが、今年は「やること」はいくつか決めてブログに書きました。ただこれに関しては目標というよりは「予定」かなと思います。

 

昔は新年を迎える度に何かしら「こうするぞ」と掲げていました。でも途中から目標は立てないようにしました。年末の振り返りはずっとしていましたが、「新年に目標は立てない」と意識的に決めていた感じです。

なぜか。私が立てた新年の目標は意味を成すことがなかったからです。――というと大変不穏ですが、決して、新年に目標を立てることは意味がない、という話ではありません。私が「新年の目標」と仲良くできなかっただけのことです。

 

新年の目標とは、ある種の「自分との約束」だろうと思います。私は私のこの一年をこうします、と自分に宣言するもの。そういうふうに宣言しておかないと一年を漫然と過ごしてしまう可能性があるので、生きた甲斐のある一年にするために「この一年はこうしましょうね」と言っておくものと思います。目標そのものをクリアするかどうかより、そこに向けて自分を動かしていくことを忘れないことが重要と思います。

そして過去の私も毎年何かしら自分に宣言していたわけですが、その約束のほとんどを私は結局守れませんでした。別に「あからさまに無理な目標を立てている」というわけではありません。そんな無理とは思えないような、「ちょっと頑張れば達成できたはずの」目標を、それでも達成できなかったわけです。そんなことが続いたので、私は自分の怠惰に直面するのが嫌になって、とりあえず新年に目標を立てるということはやめてしまいました。

 

それは目標の立て方がまずいのではないか……そう思われた方が多かろうと思います。その通りです。ただ、どうまずいのかに気づくのは結構難しくて、はっきり答えが出たのは倉下さんのご投稿を見て考え始めてからです(つまり今さっきです)

一言で言うと、「程度」の問題だと考えていたのが根本的な誤りでした。前回駄目だったのを、「じゃあこのくらいなら」と思って目標にする、その態度がそもそも失敗への道に繋がっていたわけです。

昔の私にとって「新年の目標」とは、自分を矯正するためのものでした。自分の欠陥を埋めること、自分の苦手を克服すること、自分の根性を叩き直すこと。「今の私」というのは「駄目な人間」で、一年の間に少しでも「まともな人間」にならなくてはいけなかったのです。如何にも精神を病みそうな認識ですね。それがかつての私の当たり前でした。

そんな状態なので、新年の目標というのは常に「今年こそは」と思って掲げることになります。既に失敗したものを、今年こそは実らせようと思って、ケツを叩くために自分に表明するのです。「できない」という結果がもう出ているのに、新年のやる気の勢いでどうにかしようとしてしまう。

 

むしろ逆に考えるべきだったのだと思います。去年上手くいったことについて、次はどの高さまで飛ぶのかを考える。あるいは、できるかできないかなんてわからない未知の領域に向けて、一歩踏み出すことを考える。

もちろん自分の苦手要素と格闘することも必要でしょうが、それはなにも「新年の目標」でやらなくてもいいようなことなのかもしれません。「新年の目標」というのはもちろん「一年の目標」です。つまり期間が決まっているものです。しかも一年というのはあっという間です。そう考えると、苦手の克服を成し遂げることを期待するにはあまりに期間が短い気がしてきます。

なので、新年というめでたきタイミングで考えるに相応しいのは、「より高く」「新しく」あるいは「(過去にできたことを)もう一度」のいずれかなのでは、と今は思います。そして新しいことを通じて結果として苦手を克服するというのは十分ありえます。(というか、苦手の克服というのはそもそもそう考えるべきもののようにも思います。)

 

ここまでは「新しい一年についての目標」という意味での「新年の目標」について私に起きたことを語ってきました。

それとは別に、年が改まるのを機に「人生の目標」を見直すということがあります。かっちり決めて欠かさずやってきたというわけではなく、「年が替わるし、まあここいらでちょっと見直すか」という気持ちが生じたらちょっくらやる、という感じです。

自分はどう生きるか、というようなことについてはレビューの然るべきタイミングというのが特にないので、年始めや年度始めを利用して考え直すのが一番私にとっては自然に感じています。

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