遠い昔にディベートがうまくできなくて発狂した黒歴史がある。その時自他が感じたことは共に「なんてプライドが高いことか」ということだったろう。
でも今考えると、そこにあったのは「プライドの高さ」ではないんですよね。ただひとつ、「自分の無さ」があった(謎の日本語)。
強権的な、他罰的な、「批判的」で「知的」な親というものの下で育った場合、その物言いをコピーしてけば、他の同年代より遥かに速いスピードで「それらしいこと」をインストールできる。受け取らされた既成の「知」によって自分が知的になったと錯覚し、その「飲み込み」によって評価を得ることになる。
そうなると自分が知的に無能であるということは全く思いもよらないということになるわけですが、実際のところ自分で物を考えるということをほとんどショートカットして生きているので、誰も気づかないけど結局のところおそろしく無能のままになっている。インストールの能力だけが高まっていく。
ここで自分の知が揺らいだ時、何にも対処ができない。対処法に皆目見当がつかない。頭の中に警報が鳴り響き、この異常事態を一刻も早く終わらせてしまわなければならないと焦燥に駆られる。それが発狂である。
別にちょっと落ち着いて考えればいいようなことでも、それは実のところ「ちょっと」という時間や「落ち着き」という精神の安定の問題ではなく、その時点でそうすることは一切不可能なのである。
真に知的な人というのは知の得難さを思い知っており、よくよく備えて生きていかねばならないということを肝に銘じているので、そのように子どもにも伝えるだろう。そうではなく、「知」そのものを押し付けて「知を持つ人間」を作り上げようとするのはおよそ知的な育て方とは思われない。
その結果、「プライドが高い」という永久に的外れな評価で刺され続け気が狂って暴れ散らかすモンスターが誕生するわけですが、運が良くないとそこから脱して「物を考える人」に生まれ変わることはできないだろう。
運が悪いとどうなるかというと、真実を暴かれることを漠然と恐れながら虚勢を張り続け人から呆れられる人間としてそのまま寿命を迎えるか、実は無能であるという真実に自分が耐えられなくなりそこで生涯を終えてしまうか、そのどちらかになるんじゃないでしょうか。