私は「自分自身を不思議な生き物と思い観察している人」に親しみを覚える。
不思議というのは「特別」でも「優れている」のでも「劣っている」のでもなく、ただ不思議ということだ。他に同じ要素を持つ人がいようと、あるいは全ての人が同じ要素を持とうと、他人がどうかは関係なく自分自身がただ不思議なのである。
そして観察とは文字通りの観察であり、私とはこうであると結論づけるための試みではない。ましてや自分を機械のように解釈して全体を説明できると思うものではない。
他人のことも不思議には不思議だが、自分自身の不思議を相手にすることに忙しいので、私は他人のことは割とどうでもいい。他人に興味がないわけではない。解き明かしていく対象として他人を設定しないということ。よって詮索する趣味はない。
観察対象が自分自身であっても、何か発見があれば嬉しくなり、しばしば何かしらの形で発表したくなるものである。それが平易な文章で行われれば「自分語り」の一種として見られるが、あくまで観察結果の発表であって、自分を何かに見せかけようとする意図は基本的には伴わない。
自慢は自己の観察結果とは根本的に違うものだ。というのは、自慢は他者と比べて己が優れていると評価しているから行われるのであって、他者の存在など関係なくただ己を不思議に思って観察するものとはまるっきり性質が違っている。
そもそも、発表したいというのはこれまた文字通り発表したいということであって、それを他者がどう思うかはほとんど考えていない。他者が読めるように整える気遣いはするが、それを他者が読んで褒めてくれたらいいなどとは露ほども思っていないのである。共感する人がいたら嬉しいとは思うし、自分と向き合うことについて誰かのヒントになったら喜ばしくはあるが、そのように言われたいとは思わない。
「発見を発表したくなる」というこの癖は時に悪癖となる。
この発見というのは、自分自身の不思議について、時に半生をかけて考え続けてきた結果のものであり、だからこそ発見が嬉しいのだが、それを読んだ側にとってはそれほどの重要性を感じられないものだろう。よって、「半生をかけてきた観察結果の発表」に対して、何分もかけずにさらっと斜め読みして「あはは、それってこういうことなんでしょうね」などと軽い反応をされるということが時折発生する。(私がのらてつとして書いていてそういうことがあったという話ではなく、一般論としてこの構図ならどこにいってもそれは起こり得るのだという話。)
この熱量のギャップ、すなわち真剣味のギャップは、話の内容の素朴さとは裏腹にかなり深刻に不和を生みかねない。そして有名な作家などでも時々見られるように、柔軟なようでいて気難しいとか、冷静なようでいて感情的とか、はたから見たら奇妙な矛盾が生まれることになる。
先に「悪癖」と書いたように、これは軽い反応をした読み手が悪くて起こることではない。読み手が十分に慎重なら避けられた摩擦であるにしても、そのような繊細さをいちいち他人に求める方がどうかしている。(私自身それを幾度も反省する羽目になっている。)
要は発表が軽率過ぎるのである。
もしも明確に研究の形をなしているなら、考えなしに勢いで発表してしまうということはないはずだ。入念に準備をして、受け手の反応を想定し、想像しうる限りのことに備えた上でいざ発表となる。一方で、自分自身の観察というのは極めて個人的なものであるがゆえに、実際そこにある真剣さを自分でも忘れて、世間話のようにして軽々しく発表してしまうことがある。自分から発表しておきながら、それに対する反応に対してまるで無防備なことがあるのである。
とはいえ、軽率に発表してしまうからこそ言えること、知れるものはたくさんある。自分自身を観察している人々から軽率さが一切取り除かれたなら、みんな口を噤んで自分のことを発表などしないだろう。ものすごく親しくなって初めてそっと打ち明けられるというほどに秘められたものになってしまうかもしれない。
しかし別に自分のことは秘密ではない。そうやって秘めてしまうのはどこかまずいことではないかと思う。本来軽率に発表してしまえるほどあっけらかんとしたものだったはずなのに、熱量のギャップに気分を台無しにされることを避けて閉じてしまうのは、他の同類との出会いを難しくするし、早い話が「面白い話」が世の中から失われすぎる。
軽率さを敢えて残しながら、最低限のコントロールをしていく、そのことに尽きるだろう。
いずれにしても、このようなタイプというのは稀にいて、知り合えばおそらく互いに親近感を抱く。しかし意気投合して盛り上がるということには必ずしもならない。そもそも自分の観察の方に一生懸命であるし、相手の観察結果も慎重に注意深く扱うから、同じ空気を吸ってちょっと微笑む以上のことは起こらない場合もある。SNSで言えば「いいね」をつけるだけになることもあるだろう。
「ワタシトアナタ、ニテル!」と勝手に思ってそう伝えたいというようなことは時々あって、しかし実際にそう言うわけにはいかずにただ念を送っているみたいなことになるのだが、それ以上距離を詰めることなく見守っている時間というのが案外豊かなのじゃないかと思っている。