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チラシの裏
トピックのないただのつぶやき。
zawazawaでは「タイムライン」と題していたけど、掲示板なら「チラシの裏」かなと。
アウトライナーについて思うこと、みたいなのもトピックを作っておけば書き込みたくなるかな。
情報管理全般にするよりはもう一歩具体的にした方が良いかもしれない。
このレスへのレス(>>4)
>>1
アウトライナーそのものにすごく興味があるというよりは、アウトライナーを使うことに伴う事象を一般化して考えたいという感じがある。
このレスへのレス(>>5)
>>4
関心の対象はアウトライナーと自分の接点の部分ということだろう。
接点というのは一般的な「つながり」というのではなくアウトライナーという概念と自己の存在が触れて何かが起こっている地点ということ。
なんか目が痛くてしんどい一日だった。
すごい痛いというわけじゃないけどストレスは小さくない感じ。
ゲームとか音楽とか、昔好きだったものを今でも好きだと信じたい気持ちがある。それで、同じタイプのものをやったり聞いたりした時に「それほどでもない」感じがすると、「いやそんなはずは」と思ってしまう。
熱量が失われた、という引き算のショックを感じるのだろう。
それと同じかそれ以上に何か新しいものが加わっていると思うのだが、そのことに自覚的でないと「どんどん色褪せていく」という喪失感に襲われる。
もっとも鮮やかなのが思春期で、そこから色が抜けていくばかりのような気になる。でも、別にそうではないと思う。「変わった」だけで、「減った」のではないのだろう。
言及先
アウトライナーについて思うこと、みたいなのもトピックを作っておけば書き込みたくなるかな。
情報管理全般にするよりはもう一歩具体的にした方が良いかもしれない。
>>1
アウトライナーそのものにすごく興味があるというよりは、アウトライナーを使うことに伴う事象を一般化して考えたいという感じがある。
このレスへのレス(>>5)
>>4
関心の対象はアウトライナーと自分の接点の部分ということだろう。
接点というのは一般的な「つながり」というのではなくアウトライナーという概念と自己の存在が触れて何かが起こっている地点ということ。
言及先
言及先
アウトライナーについて思うこと、みたいなのもトピックを作っておけば書き込みたくなるかな。
情報管理全般にするよりはもう一歩具体的にした方が良いかもしれない。
>>1
アウトライナーそのものにすごく興味があるというよりは、アウトライナーを使うことに伴う事象を一般化して考えたいという感じがある。
>>4
関心の対象はアウトライナーと自分の接点の部分ということだろう。
接点というのは一般的な「つながり」というのではなくアウトライナーという概念と自己の存在が触れて何かが起こっている地点ということ。
「APIを叩く」「ブランチを切る」のようなメタファー、自分の身体感覚と合ってないものが多くて苦手にしている。
このレスへのレス(>>7,>>8,>>9)
>>6
「扉を叩いて中から何かを出してもらう」的イメージがあったとして(それが「APIを叩く」のイメージとして正解かどうかはわからないけども)、私の中では「叩く」より「出してもらう」方に重みがあるので「叩く」の方を採用されると「叩いてどうするの?」という気持ちになってしまうのだと思う。
>>6
Gitの「ブランチを切る」は「枝分かれさせる」の意味のはずだけど、「枝を切る」と言ったら「枝を切り落とす」イメージがあって、むしろ「存在していたブランチを切り落とす」様子を想像してしまう。
業界用語というのはそういうものなんだろうけど、わざわざメタファーを使っているのにメタファーを使うメリットを享受できていない感じがあって個人的に馴染めないでいる。
>>6
漫画の「ネームを切る」も不思議に思っている。
「切る」になった何らかの経緯があるとしても(映画のコンテから?)、「切る」ですっかり定着するほど納得のメタファーなのだろうか。
日本人、なんでも切りたがる?
言及先
「APIを叩く」「ブランチを切る」のようなメタファー、自分の身体感覚と合ってないものが多くて苦手にしている。
>>6
「扉を叩いて中から何かを出してもらう」的イメージがあったとして(それが「APIを叩く」のイメージとして正解かどうかはわからないけども)、私の中では「叩く」より「出してもらう」方に重みがあるので「叩く」の方を採用されると「叩いてどうするの?」という気持ちになってしまうのだと思う。
言及先
「APIを叩く」「ブランチを切る」のようなメタファー、自分の身体感覚と合ってないものが多くて苦手にしている。
>>6
Gitの「ブランチを切る」は「枝分かれさせる」の意味のはずだけど、「枝を切る」と言ったら「枝を切り落とす」イメージがあって、むしろ「存在していたブランチを切り落とす」様子を想像してしまう。
業界用語というのはそういうものなんだろうけど、わざわざメタファーを使っているのにメタファーを使うメリットを享受できていない感じがあって個人的に馴染めないでいる。
言及先
「APIを叩く」「ブランチを切る」のようなメタファー、自分の身体感覚と合ってないものが多くて苦手にしている。
>>6
漫画の「ネームを切る」も不思議に思っている。
「切る」になった何らかの経緯があるとしても(映画のコンテから?)、「切る」ですっかり定着するほど納得のメタファーなのだろうか。
日本人、なんでも切りたがる?
500字くらいでもブログ記事として出していいと思ってはいるけどなかなかそうはできない。
でも「魅力的な記事」ってむしろ短い。
一見すると「短いのに豊か」に感じるから魅力的に思えるのだが、実際には半分くらいは「短いから魅力的に感じる」のではないかという気がする。
つまりその意味では短い方が得をする。
でも短いと魅力を失うものもある。
何が違うのかっていうのは結局のところ、「正確にわかりたい」のか、「何かを感じ取りたい」のか、ということだろう。
前者は説明が不十分だと困る。後者は語られないところに読み手は勝手に何かを感じ取り、時にはその方が豊かな感じがする。
このレスへのレス(>>11)
>>10
多分、「意味が曖昧だ」と思われることにある種の恐怖心があるから「スッと書いてスッと引く」みたいなことができないのだと思う。
曖昧でいいのにね。
というか、「曖昧なのは許せない」みたいな人に許されなかったとして、だから何、という感じもする。
言及先
500字くらいでもブログ記事として出していいと思ってはいるけどなかなかそうはできない。
でも「魅力的な記事」ってむしろ短い。
一見すると「短いのに豊か」に感じるから魅力的に思えるのだが、実際には半分くらいは「短いから魅力的に感じる」のではないかという気がする。
つまりその意味では短い方が得をする。
でも短いと魅力を失うものもある。
何が違うのかっていうのは結局のところ、「正確にわかりたい」のか、「何かを感じ取りたい」のか、ということだろう。
前者は説明が不十分だと困る。後者は語られないところに読み手は勝手に何かを感じ取り、時にはその方が豊かな感じがする。
>>10
多分、「意味が曖昧だ」と思われることにある種の恐怖心があるから「スッと書いてスッと引く」みたいなことができないのだと思う。
曖昧でいいのにね。
というか、「曖昧なのは許せない」みたいな人に許されなかったとして、だから何、という感じもする。
自分のアイデアについて、特に欠点があったわけでもなく、ただ続けていない、ということがよくある。
続けられないなら欠点があったということじゃないか、と考えることもまあできるのだが、でも大抵は「他のことに意識を向けたから」ということが理由で止まってしまっている。
欠点はないが、続けるメリットがそんなに大きくなかった、ということなら言えるだろう。
で、続くために必要なメリットの大きさというのが結構なサイズなのだと思う。
そこに達しないと続かないけど、そんなにすごいメリットがあるアイデアっていうのはそうそうない。
そしてなんとなく止まってしまう。
続かなかったことを反省しようにも、「飽きっぽいから…?」みたいな頼りない結論しか出てこない。
まあ、自分のアイデアなら実践し続けなければ意味がない(アイデアに価値があることにならない)、と考える必要もないとは思う。
PharoをインストールしてSmalltalkをちょっと触っている。
果たして良さがわかるところまでたどり着けるか怪しい…。
半月くらい「のらてつ」モードを完全オフにしていてすっかり浦島太郎。
このレスへのレス(>>15,>>16,>>18)
>>14
遠ざかりたかった的なネガティブな動機は全然なかったのだけれど、ちょっと懐古の渦に飲み込まれていたというかなんというか。
昔自分が好んでいたものを見て、聴いて、読んで、昔からの知人と色々話して、ということをしていた。昔使っていたアプリケーションにまた触ったりもしている。
あと身の回りで変化があったので、そちらに意識を割いていたのも大きい。
>>14
この二年くらい、自分にまとわりついていたものを振り払って前に進むみたいなことをずっとしてきた。脱皮していた、という感じ。
無自覚に縛られていたものを脱ぎ捨てられたことで生まれ変われたようなところもある一方で、別に手放さなくてもいいものを置き去りにしていた。……というか、新たな領域、空白の領域を求めすぎて、過去に一度でも触れて手放したものたちを拾い直すということが全然なかった。
その拾い直しの作業を今しているのだと思う。
>>14
浦島太郎をさらに二週間継続していた。一瞬で二週間経ってしまっていた。
その間に日記ツールを開発したんだけどこれがかなり最強。
昔使っていた複数の日記アプリ(Android)のデータをインポートできるようにしたりして、分散してしまっている記述の結構な部分をまとめることができた。気分的にものすごくスッキリした。
SQLiteをJSONにすることを覚えたのが大きい。
このレスへのレス(>>19)
>>18
何か作るごとにコードの書き方が大きく変わってしまっていて、なかなか過去のツールのリファクタリングができないでいる。
でもまあこれ以上良い感じにはならないかなあ。根本的に違う発想を取り入れることにならない限りは。
言及先
半月くらい「のらてつ」モードを完全オフにしていてすっかり浦島太郎。
>>14
遠ざかりたかった的なネガティブな動機は全然なかったのだけれど、ちょっと懐古の渦に飲み込まれていたというかなんというか。
昔自分が好んでいたものを見て、聴いて、読んで、昔からの知人と色々話して、ということをしていた。昔使っていたアプリケーションにまた触ったりもしている。
あと身の回りで変化があったので、そちらに意識を割いていたのも大きい。
言及先
半月くらい「のらてつ」モードを完全オフにしていてすっかり浦島太郎。
>>14
この二年くらい、自分にまとわりついていたものを振り払って前に進むみたいなことをずっとしてきた。脱皮していた、という感じ。
無自覚に縛られていたものを脱ぎ捨てられたことで生まれ変われたようなところもある一方で、別に手放さなくてもいいものを置き去りにしていた。……というか、新たな領域、空白の領域を求めすぎて、過去に一度でも触れて手放したものたちを拾い直すということが全然なかった。
その拾い直しの作業を今しているのだと思う。
自分に必要なのはプロダクト型アウトライナーだった、という結論に達しそう。
昔使っていたNanaTreeみたいなやつ。
今はAndroidのハルナアウトラインを久々に積極的に使っている。
ハルナアウトラインのファイルをPCではMeryで開いて階層付きテキストとして編集している。
言及先
半月くらい「のらてつ」モードを完全オフにしていてすっかり浦島太郎。
>>14
浦島太郎をさらに二週間継続していた。一瞬で二週間経ってしまっていた。
その間に日記ツールを開発したんだけどこれがかなり最強。
昔使っていた複数の日記アプリ(Android)のデータをインポートできるようにしたりして、分散してしまっている記述の結構な部分をまとめることができた。気分的にものすごくスッキリした。
SQLiteをJSONにすることを覚えたのが大きい。
このレスへのレス(>>19)
>>18
何か作るごとにコードの書き方が大きく変わってしまっていて、なかなか過去のツールのリファクタリングができないでいる。
でもまあこれ以上良い感じにはならないかなあ。根本的に違う発想を取り入れることにならない限りは。
言及先
言及先
半月くらい「のらてつ」モードを完全オフにしていてすっかり浦島太郎。
>>14
浦島太郎をさらに二週間継続していた。一瞬で二週間経ってしまっていた。
その間に日記ツールを開発したんだけどこれがかなり最強。
昔使っていた複数の日記アプリ(Android)のデータをインポートできるようにしたりして、分散してしまっている記述の結構な部分をまとめることができた。気分的にものすごくスッキリした。
SQLiteをJSONにすることを覚えたのが大きい。
>>18
何か作るごとにコードの書き方が大きく変わってしまっていて、なかなか過去のツールのリファクタリングができないでいる。
でもまあこれ以上良い感じにはならないかなあ。根本的に違う発想を取り入れることにならない限りは。
一番騒然としていた時間帯に開いてなかったのでよくわかってないけど、Twitterに一騒動あったようですね。
それに伴いMastodon(Fedibird)は流入が激増したからかホームが反映されなかったし、BlueskyもAndroidアプリで開いたら他の人の投稿がホームに表示されなくなっていたりして(私だけだろうか?)、なんかこう、「この形式に頼るのは駄目だな!」という気持ちが高まった。
このレスへのレス(>>21,>>22)
>>20
と言っても、結局どうするのがベストなのかはまだ悩みどころ…。
「掲示板」や「タイムライン」のような、他人と共有する「場」への投稿での自分の言葉の軽さと、自分に責任がある場での自分の言葉の重さがイコールじゃないのが難問。
>>20
やっぱり自分でサイトを作ってRSSフィードを出力するようにすべきか…。
言及先
一番騒然としていた時間帯に開いてなかったのでよくわかってないけど、Twitterに一騒動あったようですね。
それに伴いMastodon(Fedibird)は流入が激増したからかホームが反映されなかったし、BlueskyもAndroidアプリで開いたら他の人の投稿がホームに表示されなくなっていたりして(私だけだろうか?)、なんかこう、「この形式に頼るのは駄目だな!」という気持ちが高まった。
>>20
と言っても、結局どうするのがベストなのかはまだ悩みどころ…。
「掲示板」や「タイムライン」のような、他人と共有する「場」への投稿での自分の言葉の軽さと、自分に責任がある場での自分の言葉の重さがイコールじゃないのが難問。
言及先
一番騒然としていた時間帯に開いてなかったのでよくわかってないけど、Twitterに一騒動あったようですね。
それに伴いMastodon(Fedibird)は流入が激増したからかホームが反映されなかったし、BlueskyもAndroidアプリで開いたら他の人の投稿がホームに表示されなくなっていたりして(私だけだろうか?)、なんかこう、「この形式に頼るのは駄目だな!」という気持ちが高まった。
>>20
やっぱり自分でサイトを作ってRSSフィードを出力するようにすべきか…。
毎日ブログを書き、SNSはやらない、と決めるべきなのかもしれない。
このレスへのレス(>>24)
>>23
多分記事の量を増やせばひとつひとつの記事の存在感が薄まるから、気軽に書ける度合いは高まるとは思うんだよね。
SNSに放流するようなテンションでこの記事を書いている、ということを表現できる何かがあればより良いと思うけど、どういう手段があるだろうか。
このレスへのレス(>>25)
>>24
文体とか断り書きとかで区別するのはあんまり有効じゃなさそう。というか、ごちゃごちゃ言い訳がましくなる。
視覚的に区別できた方がよいと思う。チラシの裏ですよ的な感じで。
そうやって区別すること自体ある種の狡さがあるのかもしれないけど、でもいちいち責任を云々されるようなことか?というのがそもそもある。
言及先
毎日ブログを書き、SNSはやらない、と決めるべきなのかもしれない。
>>23
多分記事の量を増やせばひとつひとつの記事の存在感が薄まるから、気軽に書ける度合いは高まるとは思うんだよね。
SNSに放流するようなテンションでこの記事を書いている、ということを表現できる何かがあればより良いと思うけど、どういう手段があるだろうか。
このレスへのレス(>>25)
>>24
文体とか断り書きとかで区別するのはあんまり有効じゃなさそう。というか、ごちゃごちゃ言い訳がましくなる。
視覚的に区別できた方がよいと思う。チラシの裏ですよ的な感じで。
そうやって区別すること自体ある種の狡さがあるのかもしれないけど、でもいちいち責任を云々されるようなことか?というのがそもそもある。
言及先
言及先
毎日ブログを書き、SNSはやらない、と決めるべきなのかもしれない。
>>23
多分記事の量を増やせばひとつひとつの記事の存在感が薄まるから、気軽に書ける度合いは高まるとは思うんだよね。
SNSに放流するようなテンションでこの記事を書いている、ということを表現できる何かがあればより良いと思うけど、どういう手段があるだろうか。
>>24
文体とか断り書きとかで区別するのはあんまり有効じゃなさそう。というか、ごちゃごちゃ言い訳がましくなる。
視覚的に区別できた方がよいと思う。チラシの裏ですよ的な感じで。
そうやって区別すること自体ある種の狡さがあるのかもしれないけど、でもいちいち責任を云々されるようなことか?というのがそもそもある。
せっかくここを用意したのに、これこそここに書くべきというような内容をついBlueskyに投稿してしまっている。
TwitterやMastodonより一歩引っ込んだ場所としてBlueskyをイメージしていて、「Twitterじゃない方がいいからBlueskyに」となっている。「SNSじゃない方がいいからひとり掲示板に」と考えないと。
ソシャゲ、超高難度マップを攻略して喜びを表現しているプレイヤーがいたとしても、その人を含めてプレイヤーたちが「超高難度マップに挑みたい」と思っているとは限らないんだよね…。
テーマパークで楽しむ能力が僅かも無いのだが、或る「テーマ」の中に自分を入れ込むこと、というのが多分無理なんだと思う(Dランドについての評論を読んでふと思ったこと)。
同様にライブが無理だし、スポ根的感性も持ち合わせていない。
俯瞰が許されていない世界観の中のキャラクターになることができない。
バランスを取ろう的な意図によって議論を後退させると、多分相手は相当頭に来るのではないか。んなことはわかっとるんじゃと思われるだろう。バランスを取るなら議論をバランスが取れる方向に「前進」させることを試みた方がいい。
このレスへのレス(>>30)
>>29
そもそもとかそうは言ってもとかいうのは、そこに「見逃されていること」が含まれている場合であってこそ人の目を覚まさせる効果が出るのであって、ただわかりきったことを言われても「で?じゃあこの現状はどうするの?」以外に返せる言葉はない。
言及先
バランスを取ろう的な意図によって議論を後退させると、多分相手は相当頭に来るのではないか。んなことはわかっとるんじゃと思われるだろう。バランスを取るなら議論をバランスが取れる方向に「前進」させることを試みた方がいい。
>>29
そもそもとかそうは言ってもとかいうのは、そこに「見逃されていること」が含まれている場合であってこそ人の目を覚まさせる効果が出るのであって、ただわかりきったことを言われても「で?じゃあこの現状はどうするの?」以外に返せる言葉はない。
「どんな気持ちですか」という質問が正解になる瞬間ってどこにもないのでは。
「お気持ちをお聞かせください」ならまあわかる。それも状況によるけども。
何が問題なのかわからない人はわからないと思うんだけど、悪いがそのわからなさを配慮するのは難しい。「どんな気持ちですか」が受け手にもたらす不快さの問題の方が優先。公共的にはね。
フィクションで所謂「やさしい世界」を見ると、現実の世界がこうだったらいいのになと思う。
思うけど、「やさしい世界」というのは「誰も傷つけられない世界」である前に、「鈍い人間、無神経な人間がいない世界」であるので、それが如何に無理な願いかということも思う。
「やさしい世界」を望むなら、まず自分が「やさしい世界」の住人に相応しく人を理解し思いやることができなければならない。
なんか今日は全然集中ができない日だった。やる気がない。
簡単なことも能動的にはできない。ゲームもややしんどい。
消去法で残るのが本の流し読み。読書好きなタイプではないけどそれ以外が無理。(YouTubeとか映画とかの動画・映像を見る趣味がないので受動的な情報摂取は読み物だけになる。)
Instagramとかで愚痴っちゃう著名人ってそういうところにはファンしか来ないと思っているんだろうか…。
「言質取りたい」連中がうようよしているのに。二度と消えないのに。
ちょっとバランスが雑な作りのクリッカーゲーム(っぽい何か)を昨日インストールした。クリッカーゲームをやりたかったわけではなく、GooglePlayで視界に入ったゲームをインストールしてみたらクリッカーゲームだったという。
連打が必要とか広告見なきゃとかいうタイプじゃないんだけど、項目がべらぼうに多くてとにかく忙しい。別に時間勝負とかではないので慌ただしくやる必要もないけど、なんだかよくわからないままあたふたやっている。
このレスへのレス(>>36)
>>35
二日やってアンインストールした。
つまんないというわけではなかったけれど、まあもういいかなと。最近、コンプリート欲みたいなものがなくなっている。やってても何を得るわけでもないなと思うとやめてしまう。
言及先
ちょっとバランスが雑な作りのクリッカーゲーム(っぽい何か)を昨日インストールした。クリッカーゲームをやりたかったわけではなく、GooglePlayで視界に入ったゲームをインストールしてみたらクリッカーゲームだったという。
連打が必要とか広告見なきゃとかいうタイプじゃないんだけど、項目がべらぼうに多くてとにかく忙しい。別に時間勝負とかではないので慌ただしくやる必要もないけど、なんだかよくわからないままあたふたやっている。
>>35
二日やってアンインストールした。
つまんないというわけではなかったけれど、まあもういいかなと。最近、コンプリート欲みたいなものがなくなっている。やってても何を得るわけでもないなと思うとやめてしまう。
見かけた記事で、「Aさんは~~というつもりなのかもしれない。さすがである。」という文章を見たのだが、「~~というつもり」の部分は筆者の憶測であり、さすがであるも何もないだろうと思った。
事実と憶測の区別がなさ過ぎて怖い。
「なんか嫌な感じだな」と思ったら視界から外すに限る。その人が「本当はいい人」かどうかはあまり関係がない。「本当はいい人」なら全て許容しなければならないというわけでもない。
でもそこで「この人なんか嫌な感じ」とわざわざ言ったりしたら、それは自分が嫌な人間というだけのことになる。相手が悪いのではなく自分がその人にチャンネルを合わせられないのが悪いのだから。
「違和感」という言葉は最近使わないようにしている。
「違和感を大事にしろ」と言われる時、それは十分に熟達しているからこそ直観で判別できる何かのことを指していると思うし、それはその通り大事にすべきことだろう。
でも実際のところ、単に自分の無知や鈍感さによって理解できないこと、許容できないことについて「違和感がある」と言い出す人が多過ぎるし、結局それ以上表現する力が自分にないから「違和感がある」という漠然とした言い回しで済ませているんだろうと感じるパターンが多いので、この表現にはいつも警戒心を抱いてしまう。
TwitterとかBlueskyとかで、検索で見つけたポストにいきなりリプ付ける人の距離感ちょっと理解できない。
しかもそういうリプには文脈がないので共感も何もない。急に言いたいこと言ってくる(今回は画像を見せてこられた)。お前誰だよ。
普段説教臭いことはそんなに言わないような人が説教っぽいことを繰り返しているのを見かけると、何か精神的に危機が迫っているのかなと感じる。
一般にnoteの有料記事は情報のコスパとしては最悪に近いので買う時は応援代と割り切った方が良いと思う。(Twitterのおすすめタブでなんか見た)
作家なら本当に重要なことは本に書いてくれるだろうし、情報を求めて金を払うならそっちを買った方がいい。
私はWikipediaの寄付みたいに応援したい時に買うことにしている。サブスクにすると不慮の事故などで死んだ時にデジタルに疎い遺族が苦労する気がするのでサブスクは極力やらない。
そんなに経済的余裕がないので応援したい人全員の全てに金を落としていくわけにもいかず。(本はちゃんと書店で買っているので…)
それにしてもTwitter(現X)のおすすめ欄、そんなのも表示するのかと思った。フォロイーが他の人にリプ飛ばしただけで表示って、一体どういうつもりでおすすめしているんだろう。
あまり他人に対して「恥ずかしいやつだな」と思うことはないけど、トヨタイムズのCMで断片的に放たれる社長の演説を見ると「なんて恥ずかしいやつだ」と思う。自分が社のトップで責任者だということを本当にわかっているのか疑問だ。
政治家のパーティみたいに内輪だけでやるならともかく、あんなのをわざわざ市民に見えるようにして何かいいことあるんだろうか。まさか「俺達めっちゃイケてる~」とでも思っているのだろうか。