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【感想】日常的に読んでいるブログ等
偶然見つけたのではなく主体的に読みに行っているタイプの記事についての感想。
Knowledge Walkersにようこそ | Knowledge Walkers
「知をわたる」とは、さまざまな知を渡り歩くことです。知の散策、知の散歩。ときにそれはショートトリップであったり、長期旅行であったりもするでしょう。不遇にあって知の亡命を行うこともあるかもしれません。ともかくそれは移動することです。移動しながら、そこにある知を味わっていくことです。
知るためにあちこち渡り歩く、というのはメタファーとして珍しいものではないような気がするのに、どうしてか「そうか」と感じた。
「知りに行く」は既にあったイメージなのに、「知の移動」となると「知の!移動!そうか!」という気持ちになる。
どこの筋肉をどのように鍛えたいのかがわからなければ適切な筋トレメニューが組めないように、自分の知りたいが曖昧なままではそれ以降の知る行為も漠然としてしまいます。
だからまず、自分の「知りたい」を認めましょう。それは存在してもよいのだと受け入れ、それがどんな形をしているのかを見つめましょう。自分の知りたいを肯定するのです。
「自分は○○を知りたいと思っている人間でありたい」みたいな自己像があり、ずっとそれに縛られていたけれど、多分本当に自分が知りたいことは自分が思い描いていた「○○」とは全然違うんですよね。
博覧強記な人は素晴らしいと心から思っている。自分がそうであったらどんなにか素敵だろうと思っている。が、本当に博覧強記になりたいのかと言うと、多分どうでもいい。それが己の実像だということを認めるまでに結構かかっている。
自分が見つめるべきは、「博覧強記」的イメージの領域ではないのだと思う。持っている知識が絶対的に広くて多いことは大事だという思いは持ち続けながらも。
というか、どちらかというと自分のための「知りたい」を追究した先に、博覧強記の道が繋がっているのではないかとも思う。
アウトライナーと仲良くなるためのいくつかのポイント|Tak. (Word Piece)
アウトライナーを自由に使うための○箇条!みたいで面白かったです。
ポイントそれぞれについてばらばらに「こう考えた方がいいよね」と思い至りはしますが、こういう風に踏まえるべきポイントがまとめられていると見通しが良くなる感じがします。
実はこれは多くの人に共通するアウトライナーに対する誤解のひとつです。「誤解」が言い過ぎなら「アウトラインという言葉に引っ張られたイメージの偏り」とでも言えばいいでしょうか。「アウトライナーで操作するアウトライン」と「最終的な成果物のアウトライン」を混同しているわけです(むろん「間違い」ではありません)。
アウトライナーという言葉がやっぱり諸悪の根源なのでは…ゴニョゴニョ(アウトライナーという名前を好まない派のつぶやき)
意味と形式の両方を持ってしまう単語は常に両方を引き連れてしまうし、しかもカタカナ語となると「微妙な違いで言い分ける」みたいなことも起こらない。
正直「○○のアウトライン」「△△のアウトライン」という風に呼び分けてもあまり納得できないし、単に「アウトライン」と言われた時にどの意味の何を示しているのか自明でないので、「アウトライン」と呼び続ける限り日本人の混乱がなくなることはなさそう。しかし市民権を得うる日本語が思いつかないのでどうしたらいいかわからない。
せめて形式に「○○型表記」という名前が付けば半分はわかりやすくなるのにって前から思っていますがずっと考えていてもこれぞというのが思いつかない。
お互いにブログをフォローすることなく、ただ流れてくる情報を刹那的に消費している状態では、バズることはあってもアイデアが多くの人々の心にまたがって育っていくことはありません。技法が洗練されたり、転用されたりもしなければ、ある用語についてさまざまな角度から検討されるといったことも起こらないわけです。
ライフハックブーム時代の、あるいは知的生産ブームを引き起こした半世紀ほど前の時代の人々の在り方に「良さ」を感じるのは、「お互いに書いたものをフォローしあう」というところにあったのだろうなあと思う。
単位はただの「情報」ではなく、「○○さんが提示した情報」であり、その○○さんがある技法などの提唱者本人であるにしろ、他からの情報をシェアした人間であるにしろ、その人のバックグラウンドを踏まえながら情報について考えていた気がする。
「○○さんが提示した」の部分に意味があるということには、そういう環境を体験しないと思い至らない気もして、そういう環境をその価値を知っている人間ですら維持できなくなってしまったのがSNS社会の恐ろしいところ。
でもTwitterの傾きによって、「Twitterに適応しなくてもいいんじゃないか」という余地が生まれたのはその点幸いなことなのかもしれない。
このレスへのレス(>>4,>>5)
>>3
現状プラットフォームが提供するタイムラインは、基本的にそのプラットフォームのためのものであって、わざわざフィードを吐いてくれる仕様にはしないでしょう。何かしらのハックでそれが可能になっても、いつプラットフォーム側がその窓を閉じるのかはわかりません。不安定きわまりない状態です。
こういう「いつできなくなるかわからない」という不安定さって本当に嫌ですね。
統一した規格があること、そしてそれが持続されること、というのが如何に大事なことか。
>>3
一方で、やっぱり私たちはもう一度RSSなる文化に回帰することも検討したいところです。自分がチェックしている情報を自動的に収集してくれる夢のようなツール。自分が好ましく感じる情報源だけを集めた領域。それは永田希さんが『積読こそが完全な読書術である』の中で提示された自分なりのビオトープ作りとも関わってくるでしょう。そういう情報源を構築しておくことは、効率化以前の精神衛生的にも重要だなと最近は感じます(それくらいに荒れた場所になりつつあるのが近年のSNSです)。
「効率化以前の精神衛生的にも重要だなと最近は感じます」の部分が、本当にそうだなと思う。
視野狭窄を戒め過ぎるのも考えもので、やっぱり「自分のパフォーマンスを下げるもの」を除外することは必要。それは「自分に都合の悪いものは見ない」とはイコールではない。本当にその基準で取り込んだり弾いたりしていいのか、というのは常に自問しつつ、基本的には「自分の暮らしを快適にする」ことを第一に考えて動いていいのだと思う。
言及先
お互いにブログをフォローすることなく、ただ流れてくる情報を刹那的に消費している状態では、バズることはあってもアイデアが多くの人々の心にまたがって育っていくことはありません。技法が洗練されたり、転用されたりもしなければ、ある用語についてさまざまな角度から検討されるといったことも起こらないわけです。
ライフハックブーム時代の、あるいは知的生産ブームを引き起こした半世紀ほど前の時代の人々の在り方に「良さ」を感じるのは、「お互いに書いたものをフォローしあう」というところにあったのだろうなあと思う。
単位はただの「情報」ではなく、「○○さんが提示した情報」であり、その○○さんがある技法などの提唱者本人であるにしろ、他からの情報をシェアした人間であるにしろ、その人のバックグラウンドを踏まえながら情報について考えていた気がする。
「○○さんが提示した」の部分に意味があるということには、そういう環境を体験しないと思い至らない気もして、そういう環境をその価値を知っている人間ですら維持できなくなってしまったのがSNS社会の恐ろしいところ。
でもTwitterの傾きによって、「Twitterに適応しなくてもいいんじゃないか」という余地が生まれたのはその点幸いなことなのかもしれない。
>>3
現状プラットフォームが提供するタイムラインは、基本的にそのプラットフォームのためのものであって、わざわざフィードを吐いてくれる仕様にはしないでしょう。何かしらのハックでそれが可能になっても、いつプラットフォーム側がその窓を閉じるのかはわかりません。不安定きわまりない状態です。
こういう「いつできなくなるかわからない」という不安定さって本当に嫌ですね。
統一した規格があること、そしてそれが持続されること、というのが如何に大事なことか。
言及先
お互いにブログをフォローすることなく、ただ流れてくる情報を刹那的に消費している状態では、バズることはあってもアイデアが多くの人々の心にまたがって育っていくことはありません。技法が洗練されたり、転用されたりもしなければ、ある用語についてさまざまな角度から検討されるといったことも起こらないわけです。
ライフハックブーム時代の、あるいは知的生産ブームを引き起こした半世紀ほど前の時代の人々の在り方に「良さ」を感じるのは、「お互いに書いたものをフォローしあう」というところにあったのだろうなあと思う。
単位はただの「情報」ではなく、「○○さんが提示した情報」であり、その○○さんがある技法などの提唱者本人であるにしろ、他からの情報をシェアした人間であるにしろ、その人のバックグラウンドを踏まえながら情報について考えていた気がする。
「○○さんが提示した」の部分に意味があるということには、そういう環境を体験しないと思い至らない気もして、そういう環境をその価値を知っている人間ですら維持できなくなってしまったのがSNS社会の恐ろしいところ。
でもTwitterの傾きによって、「Twitterに適応しなくてもいいんじゃないか」という余地が生まれたのはその点幸いなことなのかもしれない。
>>3
一方で、やっぱり私たちはもう一度RSSなる文化に回帰することも検討したいところです。自分がチェックしている情報を自動的に収集してくれる夢のようなツール。自分が好ましく感じる情報源だけを集めた領域。それは永田希さんが『積読こそが完全な読書術である』の中で提示された自分なりのビオトープ作りとも関わってくるでしょう。そういう情報源を構築しておくことは、効率化以前の精神衛生的にも重要だなと最近は感じます(それくらいに荒れた場所になりつつあるのが近年のSNSです)。
「効率化以前の精神衛生的にも重要だなと最近は感じます」の部分が、本当にそうだなと思う。
視野狭窄を戒め過ぎるのも考えもので、やっぱり「自分のパフォーマンスを下げるもの」を除外することは必要。それは「自分に都合の悪いものは見ない」とはイコールではない。本当にその基準で取り込んだり弾いたりしていいのか、というのは常に自問しつつ、基本的には「自分の暮らしを快適にする」ことを第一に考えて動いていいのだと思う。
ぼくたちの望みの多くは言葉にできる形なんかしていないのではないか。「夢」や「やりたいこと」として具体的な言葉にできる望みの方が、むしろ例外なのではないか。
「将来の夢は?」と問うて「具体的な職業名」を答えさせるとか、「何を成し遂げたいか?」を言わせるとか、社会に貢献する方法で自分を定義しようとする感じがする。でも自分の望みというのはふつう「社会に貢献する方法」の中にはないのだと思う。
如何にも利他的な職種や手段でなくとも、余程の野心家でなければ、思い描くのは人に良い影響をもたらしうる何かだろうと思う。それはやはり「社会に貢献する方法」の中から最も自分が惹かれるものを選んでいるということになると思う。
それを読み返していて気づくのは、少なくともぼくの場合、望みの多くは名前がつけられるような具体的な行動や成果なんかではなく、ぼんやりした「情景」の形で存在しているということだ。
「夢」や「やりたいこと」がうまく言葉にできないという人の中にも、この種の「情景」ならあるという人はいるんじゃないかと思っている。
自分に最適な「社会に貢献する方法」が見つからない状態を「夢がわからない」と思ってしまうのは、まさに私自身がそうだったが、多分ただただ不幸な苦しみなのだろうと思う。自分に何か欠陥があるかのような気持ちになった。空っぽという感じがした。
今でも所謂「夢」とか「やりたいこと」というのは別にない。ひねり出そうとしてこれかなと言うことはあるが、正直に言えば「ない」と言っていいと思う。
でも、自分がどういう人間であるかを語る力はそんなに乏しくないと思う。これだけ色々言えるのに、どうして自分が空っぽだとか欠陥があるとかいうことになるんだろう? 途中からそう思い始めた。
多分私も、Tak.さんが仰るような「『情景』ならある」タイプの人間なのだと思う。
自分の望みに名前はつけられないし、「名前がつけられないタイプの望み」という概念をピッと指し示す名前も無いような気がする。
望みに名前をつけたいわけではない。でも、名前がつかないことによって遠回りする必要に迫られたというところはあるのだと思う。
知的生産力向上委員会 | Knowledge Walkers
価値とは何か。何に価値があるのか。それはどうやったら作り出せるのか。
ある意味で「知的生産性」を測定するその土台の部分について正面から疑問を抱えることこそが、知的生産においては必要である。逆に言えば、それを何かのメジャーで測れると考えている時点ですでにドツボにはまりこんでいる。
新しくなくても価値がある、ということも考えなくてはいけないなと思う。
インターネットによって世界に繋がりすぎて「絶対的に新しいもの」のことに意識を向けてしまうが、普通、人間というのは、その短い人生、狭い視界の中で偶然何かを知るということをもたらしてもらえれば十分にありがたい。どこかで誰かが絶対的に新しいものを発見して発表していたとしても、それを自分が生きている間に自分の視界に入れてくれる存在がなければ無いのと同じだ。
ただ、「情報としては新しくないが魅力を持っているもの」は「コピペで作ったもの」とは根本的に違う。そりゃそう。
その「魅力」の部分というのは、その書き手を通さなければ出てこないのだから、表現としては新しい何かを含んでいる。いや、新しいというか、「十分稀な」もの、と言った方がいいのかもしれない。
「十分稀な」ものを作るためには真剣にならなければならない。適当にやったものは「十分稀」にはなり得ない。記事にあるように「何かのメジャーで測れる」と考えていても駄目だ。そうやって測れるなら容易に量産可能なはずだが、そこに「十分稀な」何かはないだろう。
アイデアプロセッサは発想プロセッサという意味ではなかった説|Tak.
アウトライナー(アウトラインプロセッサ)は、その初期から「アイデアプロセッサ」という別名を持っていました。(中略)にもかかわらず、私は「アイデアプロセッサ」という言葉にずっと違和感を持ち続けてきました。
その理由は「idea=発想」という思い込みにあった、という記事。これはおそらく知的生産について語られる何かが好きな人々(つまり私たち)にありがちなことだろうと思った。
Tak.さんの記事の意図からは離れるが、この「言葉の問題」には私も日頃から思うところがある。
ビジネス書によく登場する「アイデア」「発想」「思考」といった言葉には結構警戒している。「アイデア」についてはそもそも外来語だから誤解の温床になるという警戒感があるが、日本語である「発想」「思考」もビジネス書界隈の文脈によって何か妙な印象が伴ってしまっている感があって軽率には使いにくい言葉になっている。
この記事でTak.さんが「考え」という言葉選びをしていて、「それがいい」と思ったのだが、つまるところ「考え」には含まれるが「思考」と言うともう削ぎ落とされている(あるいは新たにくっついている)何かがある。
「発想」にしろ「思考」にしろ、その語を使う時、単にその言葉が意味するものを指し示すに留まらず、「~~というあなたたちが憧れているもの」という気配を纏っているように思う。「発想法」「思考法」とタイトルに書かれただけでその本を手に取ってしまうのはそういう魔力が働いているからだろう。
私自身そのような気持ちでそういった本を手に取ることがしばしばあるわけだが、しかし読んでみると自分が求めているものではないと感じることが多い。誘蛾灯のようなもので、引きつけられてはみたものの、自分が求めているのはそれではないのだ。(もちろん、これこそ自分が欲していたものだ!と思う人はたくさんいるだろう。だから売れているのだと思う。)
しかし、自分が読みたいものは「発想」「思考」を含むもののはずなのである。で、実際に自分が満たされる形でそれらが書いてあるのはどういうところなのかと言うと、例えば『知的生産の技術』や『ワープロ作文技術』や『「超」整理法』などの本だ。「~の技術」「~法」という言葉の魔力はこれらも持ってはいるが、「発想法」「思考法」とは書いていない。
「発想」「思考」の話なのだが、「発想法」「思考法」の中には書かれない。そういうものがある。このズレを私はずっと不思議に思っている。