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Thinking out loud
ScrapboxのNoratetsu's Room(のらてつ研究所)プロジェクト内に作っていたツイートのような記述群。
現状、階層無視でフラットに表示されるようになっているので読みやすくはないかも。
(「のらてつ」の活動として)のらてつ研究所とTwitterとUnnamed Campの行き来しかしていない状態が月単位で続いている…。
のらてつ以前のことだが、考えたことを言ったり書いたりしたときに、「へえー、なるほど」と言われることは時折あって、それもまあ嬉しいことではあるけれども、そこから誰かとの間に何かが発展していくということがあまりなかった。今は発展を感じるので楽しい。
適当にあしらわれていたというのではなくて「読者はつくけど仲間ができない」という感じだった。
/unnamedcamp/議論における逆ジェンガという状態になってほしかったのに、私がどうブロックを置いても積んでもらえなかったという感じ。積み合えた人は何人かしかいなかった。
前にうちあわせCastで言及していただいたのを聞いたときに、私が悪かったわけじゃないんだ、と思えました。
他のScrapboxで「Unnamed Camp」についての記述があるか検索してみたが。
Unnamed Campがカバーしている領域というものを、私はごく当たり前な感じで「ここからここまで」と認識するけれど(書き込んでいる人たちはみんなそうだと思うけど)、外から見たら「これは何なのか」がわからない可能性があるのか、とちょっと思った。unnamedなのだからそれはそうか。
権力欲とか名誉欲とか支配欲とかそういうのがないので、そういったものがあってなんぼみたいな世界には一切近寄りたくない。「奪われるだけ」という感覚がある。何しろこちらは得られるものが少な過ぎるわけで、Win-Winにならない。
「無視されたくない」と「ちやほやされたい」の間には割と途方もない距離がある。「孤絶が嫌」と「繋がりたい」も距離がある。
「ひらく」ことを考えた場合、例えばそれが「開国」であるとすると、「鎖国」であった状態が「開国」した、ということがまず劇的なひらきなのだが、「じゃあ全世界と繋がろう!」とグローバル化までもをセットにされると無理だしまた鎖国したくなる感じがある。「そもそも閉じていない人」による「ひらかせる」はいきなりそこまでいくイメージがある(イメージに過ぎないが)。
「なぜとじたか」なんですよね。全裸で踊ると開放的になれていいぜ、と言われたら十二単着たくなる。
私自身にも「とじ」があるが、特別何かトラウマがあるというほどのことではなく、ただただ「他者が蹂躙してくること」「無神経の波動が迫ってくること」から逃げたくてとじていった。よって、私にとっての「ひらく」は、それらを完全に締め出した空間を見つけて身を置くことであると言える。
その気持ちだけを取り出してしまえば宗教団体に所属しようとすることとほとんど変わらないと思うが、つまりはそうやって宗教団体は存続するのだろうし、私は多くの宗教団体が発する蹂躙の気配からも逃げたいのでたまたまそれらとは無縁だが、そういった組織に身を寄せたくなるという心境はわからないではない。
Unnamed Campは記法が自由で気分でやれるところがいい。場所はScrapboxだけど「Scrapbox的」であることを強いる必要はないという感じ。
要するに思索がリンクされたりされなかったりしながら活用可能な形で蓄積されていくことに意味があるのであって、コミュニケーションとして滑らかである必要はあまり感じないというか。
具体的に解決すべき問題があってやっていることではないからだろう。一方で、企業のプロジェクトについての意見交換・伝達の場にするとかなら色々決めておいたほうが良いのだろうと思う。UCは意見交換によって豊かになっていくが、「意見交換のための場」ではない印象。
みんなでブレスト!という感じ。それはみんなでブログを書くのとも違うし、みんなで雑談するのとも違う。発表の場でも社交の場でもない。(そういう場所が欲しかったんですよ〜)
「そうでない場所」を見たことによって、「ああ、ここは本当に素晴らしいところなんだな」と思ったのであった。何も襲いかかってこない。誰にも襲われないし、自分の感情にも襲われない。絶望も諦観も感じないし、ただ楽しさだけがある。しみじみとした静かな楽しさだけどそれでいいしそれがいい。
ごく限られたコンテンツにだけハマる限定的オタクみたいな人間なんですが、限定的であれオタクとしての経験があるということから言うと、同じものを好きであるという理由で集まることほど罠を感じることはない。「何を好きか」ではなく「どう好きか」という「好きになり方」のほうが精神衛生上大事で、何を好きかはその後の話という感じがする。共通項を名詞で見出すと後が大変というか。
「同じものが好き」というポジティブofポジティブな理由で集まっていながら喧嘩が発生したときのどうしようもない感じは本当にただただ地獄である…。
「堂々とする」という表現があるが、なんとなく使い勝手が悪い言葉だなと思っていた。実際に堂々としている人は「堂々とする」ということによってそうなっているわけではないように思う。どちらかというと、対義語であろう「気後れする」「物怖じする」「及び腰になる」を成り立たせてしまう要素から自由であるということのように思えて、例えばそれが「尊敬する相手に対して一歩引いてしまわない」とかいうようなことだろうと思う。つまり余計なアクションをつい起こしてしまわないこと。
読もうとしているブログが積みに積んであるという状態。ブログに限らず「読もうとしているもの」がそれはもう山積している。なぜか? 読んでいないからである!(今はちょっと本を消化しているところではある)
『ボヘミアン・ラプソディ』、あれだけ話題になっていながら私は観ていなかったのだが、今日観てウウッとなった。細かい描写から色々と感じ取れる感性を養うことができていて良かったと思った。
Scrapboxって「読むもの」としてはどう頑張っても読みにくいところがあるんだけど、見た目がカードだからかな? 「見るもの」としては見やすいんだけど。
各ページを開いてしまえば大抵読みやすいが、開くに至らない。のら研では少しでも多く目に入れて全体像が分かるように概要を非表示にしてカードのサイズを小さくしているが、「読まれる」ためにはブログのようにむしろ概要をはっきり読める形にしたほうが良いんだろうと思う。
が、それだともはやブログを書けばいいことになってくる。やはりScrapboxは個人にしろ共同にしろ自分自身が書き込む側にいてこそかもしれない。
とはいえいろんな人が面白い話をしているので、読みにくさ馴染まなさは耐えて意識的に読んでいく必要があるなと思う。
内容ではなく形式で探し当てられるとなんか若干恐怖を覚える。のら研以外の、Scrapbox自体の話を全くしていないプロジェクトを、Scrapboxを使っているという理由でチェックされているのを見てヒッてなった。(正確には、あちこちでそれがリストとして公開されているということに不安を覚えた)
自分でそのプロジェクトを公開している以上はどういう見られ方をしても仕方ないし文句を言うのは筋違いだけども。「違う層」というものに対して結構怖さを感じる。
ここに私の「とじ」がある。
というかむしろ、特定の範囲に向けて「ひらいている」ために、その外から覗かれていると思うととじたくなる。オジギソウみたいな。敵がいないと思ってひらいているが、触られるととじる。
なんでだかわからないが、なんとなく急に「枷が外れた」という感覚を覚えた。自分が一段階シンプルになったような感触がある。具体的にどこがどうと聞かれるとなんとも言えないが…。
一言でいうと、「別にいーじゃん」と言える範囲が広がったという感じがする。別にいーじゃん、どうやったって。別にいーじゃん、私がそうしたいんだから。それを誰に言っているのかというと、「周りの人間」ではなく、自分自身にである。
でもそのきっかけになったことは、なんかすごく頑張って決めているものを見かけたということだった。そういうふうに決めたくないな、疲れるな、と感じたついでに自分の秩序感もスッと手放したのかもしれない。
「別にいーじゃん」と言って肩の力を抜いてやったことが、カオスの方向に行かなくなったという感じか。これまでのそういう自由を求める心の動きみたいなものは「無理した秩序に対する反発」であって、純粋な自由ではなかった。理想は、自分の心に従った自由な選択によって、結果として自分固有の秩序が見えてくること。結果として。
融通無碍に一歩近づいたのかも。
『梅棹忠夫著作集 第11巻 知の技術』を読んでいるが、1970年代の様子と今とで知性に於ける問題の深刻さはほとんど変わっていないという感じなのだなあ。(知ってた)
『知的生産の技術』という本の存在とその後の「知的生産」隆盛にも関わらず、世間一般の知性というようなものはまるで向上していないように見えるけれど、急速に酷くなったというのでもなく、1970年代の二十代は既にそうだったわけだ。(知ってた)
この「(知ってた)」は「でしょうね」という意味です。
急速に酷くなったわけではないが、悪化の一途を辿っているのは確かとは思う。そりゃあ、手本になる存在がまだいた年代が既にアホになっているのだから、もはや手本が身近にはいないという年代はもうどうしたらいいかわからないということにもなろう…。
しかしまあ、「昔はもっとまともだった」ということが世で言われているほどあり得るのかどうかはちょっと怪しいところではある。賢い人は賢い人同士のコミュニティに属し続けて生きていたところもあるだろうし、年を食えばもっと違う種類の人間と邂逅することになり、そういう種類の人間は大昔からいたのだとしても「今はそうなっているのか!?」という気持ちになるような気もする。
とはいえ、この文中で指摘されていることに関しては、梅棹忠夫がそのことに思い至らないはずはないだろうと思うので、実際悪化してそうなっている気はする。
『知的生産の技術』は、それを踏まえてその後に書かれた梅棹忠夫の文章も含めて考えないと不十分かもと思った。
Obsidianは自分に革命を起こしてくれたが、それによって、逆にObsidianが要らなくなってきた感がある。私はどこに流れ着くのか。
要らなくなってきたというか、最初に革命を感じた領域が私の中でObsidianから離れつつあるという感じ。もう日記帳になってきてる。ZettelkastenをObsidianでやろうという感じではないかもしれない。
最近挙動が微妙に重いんだけど、ファイル数のせいなのかなあ(画像がめちゃくちゃ多い状態)。PCも古くなってきているのでスペックの問題か。
これ、Chromeをウインドウ最大化した状態で見ていてObsidianに戻ったときとかに動かなくなる。Chromeを最大化しなければ大丈夫かもしれない。
同性愛者のことを何も知らない異性愛者または性的行為をするなら異性だけど打算で交際とか結婚とかしてるだけでそもそも恋愛感情をわかってない人間はお願いだから意味不明な持論展開してないで黙って自分の今日明日を考えててほしい。
LGBTQの生きにくさは、結局マジョリティとされている人間たちが「人に恋をする」「人を愛する」ということをわかっていないからという気がする。支配欲所有欲や世間体、自己顕示欲で彼氏彼女作って結婚してるというのは、それは恋とか愛とかではないでしょ。
個人的にはあまり用語的なものは使いたくないんだが、LGBTQといわゆるアライは「人に心を向ける、開く」ということをわかっている側、偏見を一向に取り下げないのはそれがわからない側、ということであって、結局は性的指向や性自認の違いでの対立じゃないわけじゃん。
無神経な人間が勝つみたいなのは許せない。
そういえば「悩ましい」を「悩んでしまう」の意味合いで使うのは誤用…とまでは言わないにしても「以前はそういう意味じゃなかったよね」というものなのだが、じゃあ今巷で「悩ましい」と表現している状態をそれ以外の表現でどう的確に言い表せるかと考えると難しく、まさに悩ましい問題という感じ。
そもそも、官能的に心乱される状態を「悩ましい」としたことのほうがなんか不思議な表現だなあ。
「必要なものを自分で実装する」という楽しさを、プログラミング技術がほとんどない身でも味わうことができるからScrapboxのUserCSSはすごい。
ちょっとずついじれるというのがポイントで、一方ブログのCSSについて「これがこのブログのCSSなんですけどあなたが自由に書き換えられますよ、はいドーン!」ってやられると圧倒されてしまって何もできない。スクロールバーを見てもうお手上げになる。
ScrapboxとかObsidianはとりあえずCtrl+Shift+Iでデベロッパーツールを開いて要素選択して「その部分がどう書かれているか」を見さえすれば「ここいじれるんじゃね?」とわかり、CSSの体系的な知識が全くなくてもググりまくれば色々どうにかなるから趣味としてはすごくやりやすい。
非公開プロジェクトなら、大胆にやってめちゃくちゃになったとしてもやばいことにはならないから安心。CSSを知っている人からしたら「いやそれはできんでしょ」と思うようなこともとりあえずやってみて「(よくわからないが)これは駄目らしい」と学習できる。そのうち「ああ、だからこれは駄目だったのか」と後れて気がつく。
実際にのらてつ研究所に実装しているのは基本的に人に見せても問題ないであろうものだけど、そこに至るまでに色々トンチンカンな試行錯誤が繰り返されています。
「ちゃんと本とか読んで体系的に勉強すれば早いよ」と言う人もあろうが、いやそりゃ早いけど「早い=楽しい」ではないのよ。私にとっては、「より多く、よりすごいことができる」が楽しいのではなく、「自分で発見して工夫できる」が楽しいのです。
体系的に勉強したくなったらやる、そしてちょっとその気分が強くなってきたので本を入手したところ。
Obsidian Release v0.12.4 - Announcements - Obsidian Forum
「Outgoing links」、そうそうこれこれ、これが欲しかったんですよ~
『思考のエンジン』、馴染みのある領域についての本だし、文を飲み込めれば「うんうん、そうだよね」になる感じの本だけど、私の知的センスより遥か高層のオシャレな(?)文章ゆえに、かなりの格闘が必要という感じだ。
浅学で固有名詞から自動的に「空気」を察しとることができないのが読解のロスを生じさせている感じがする。
でも逆に、この格闘によって、この本の文脈を離れてその固有名詞について今後知識を深めていく時には多少滑らかになるかもしれない。
ていうか、何年か前までならこの感じだと「わかる気がしない」というのが第一印象として当然だったけど、今は「ちゃんと読めばわかるのは確かなんすよね」という気分なので(実際そうだと思う)、どこかのタイミングで知的レベルがカクッと上がった感じ(「カクッ」は折れ線グラフのイメージ)。
「自治」が発生するところでの発言が「つぶやき」なわけないんですよね、もはやね。
「自治」は個人の倫理観ではないから…。
「自治」が必要というのはつまりそれぞれに何かしらの影響力があるということで、影響力がある言葉を「つぶやき」と言えるのかという。
もし人のScrapboxが検索しやすくなり且つ「この行」に言及するのも容易になったとしたら、じわじわ自治の空気が生まれてきそう。そんなのは嫌だ~。いちいち人の一言に反応してどうこうするみたいなのはTwitterだけでたくさんだ。
コミュニケーション的な要素が目立つようになれば、今いる人のコミュニケーションが活発になるだけでなく、「コミュニケーションしたい人」がガガッと流入してくることになる。その暴力性にもう辟易としている。(Scrapboxの形態でそうなり得るかは置いておくとして)
Trickleという「カテゴリを分けて呟けるTwitter的なサービス」があるのだが、リリース当初は地獄の様相であった。単に「今身を置いている環境がなんか嫌(人選的な意味で)だけどTwitterとおんなじことしたい」という人間がかき回しまくって毎日学級会で喧嘩三昧みたいな感じだったのである…。そういうのから離れようぜというコンセプトだと私は認識したのだが。
Trickle - 好きなアクティビティを気兼ねなく書き留めよう
見る・話すより、書くこと自体を楽しむサービス「Trickle」 - maru source(開発者さんの詳しい解説)
自分のオリジナリティを発揮したいとか特別でありたいとかはそんなに思わない(つもりでいる)けど、自分にとって快適なものを生み出した瞬間は最高の気分という感じがする。
人の感性に合わせていけないタイプゆえに、自分が快適なものを作ろうとするとなんとなく人と違うということになっていくような気はする。
ちょっと関連 /unnamedcamp/あなたはなぜ知的生産をするのか?
でも「面白いね」とか「オリジナリティがあるね」とか言ってもらえると嬉しい。
「独特である私」を実感する喜びというよりは、「なんとなく人と違うっぽい私」を受け入れてもらえる喜びという感じ。
まあでも、多分誰しも自分の感性を追究すれば「ちょっと変わってる」ものになっていくとは思う。そうしようと思わない人が多いような気はするけど。
Unnamed Camp、提示された問いかけに対して自分の感じ方をそっと置いていく、以外の書き込みができないという自覚。
自由な場であるにも関わらず、やはり「どんな記事があるか」というパターンを分析・学習して適応していくという工程を経ないと動けない。
そもそも、何かを言えるほど知識がない。
「ひらかれた場」にひらいていくにはでは「自分のコンプレックスが露呈する恐怖」について書いたが、この場合そういう問題でもなく、シンプルに「そのステージに立てていない」という感じがする。
車輪の再発明をするのが好きだけど、やはり人と交流する場で「今更のこと」を気づかず書いてしまうみたいなのは避けたくなる。
お勉強しよう。
なんかここ数日体調が悪いような気がする。慢性疲労症候群的な感じの不調(慢性疲労症候群ではないと思う)。
単に「疲れた」ということなのかなあ…。疲れるようなことをしたつもりはないが…。
体調が悪いと、それでも何かを考えたい気持ちは衰えないのだが、扱える抽象度が制限されるために、具体的なことに対して論じようとし始めるので、舌禍注意報が出るわけなんですよね。
あと考える題材を外に求める。自分の思索のログとかを眺める気力がないので、誰かが言ったことに対しての反応が主になってしまう。
ゴーストバスターズ面白かったー(初見)
しかしなんというか、批判されるだろうなというポイントをちょこちょこ感じてしまった。直接的な当事者じゃないから「面白かった」と言っていられるが、という感じ…。
まあ、戦うべき層というのが何段階もあるから仕方ないのか?
2021年に公開していたら許されてなさそう。
話の組み立てと演出はエンタメとして面白かった。
CG技術の無駄遣いみたいなの楽しい。
1984年版だともっと大袈裟に見えただろうしより滑稽味があったんだろうけど…。
ソファーに座ってオットマンに足上げてコーラとポテチ飲み食いしながら観たい映画。
アメリカのホームドラマにありがちなノリが苦手なのだが、この映画はあんまりキツくなかった。
ヒステリックにイライラする女が登場しないということがどれほどありがたいことか。(あれ誰得なんだろう?)
時々急に単純なゲームアプリをインストールしたくなる。急に。そして3回くらいやって飽きる。
これはどういう欲求なんだろう。
そうか、この世には「理解」さえできれば何も障害を感じないタイプと、理解しようがしまいが「印象」に引っ張られるタイプとがあるわけだ。
「印象」と戦う人は、「印象」の引力に対する勝利を「やっと理解した」と表現するが、実のところそれは「理解」の問題ではない。
世の中に存在するコミュニケーションを見ていて「なんでそういう…!?」と思うことが大なり小なり数多あるのだが、そういうコミュニケーションをしている人たちも特に生存に困ることもなく昨日を生き今日を生きている。
自分のそういうコミュニケーション不全に対する潔癖症的な感覚は、(積極的に使おうと思えば役に立つかもしれないが)自分の精神的体力を過度に削ってしまうばかりかもしれない。
まあそもそも、自分が変なコミュニケーションをしていないとは限らない。他人から見たらおかしいのかもしれない。(おかしさを指摘された経験はない)
世の中の人々、びっくりするほど「意図」を読まない。人類の共感能力なんか嘘やろと思ってしまう。
あと違う意図に路線変更したということを示さない。「話変わるけど」的な断りを入れていない。
そうすると、当然ながら相手は「意図がずれている」と思うので、誤解を解こうとして噛み合わない会話になる。
今この瞬間に相手の頭の中でアクティブになっている情報・概念・主張・仮説はなんなのかという。
すごーい
何がどうなってこうなるのか想像すらできないが、便利なことはわかる!
パソコンの中身がどうなっているのかわからなくともパソコンを使うことはできる、というやつ。
まるで無力な身としては技術者の皆様に感謝するほかない。
一覧性やページ遷移の手間の問題から、ページの粒度をあまり細かくしたくないなと思っていたのだが、これを使うとむしろ細かくしていったほうが整理されそう。
ScrapboxでやりにくいからObsidianでやっていたこと、のいくらかがScrapboxで間に合うようになる。
非公開プロジェクトの使い方がガラッと変わるかも?
自分のプロジェクトを非公開含めて全部whiteList
に書いておくと同名のリンクがある時に表示される。
横断できないからプロジェクトをひとつにまとめていたが本当は分けたい内容、を分けてもよくなる。
動作が軽いのが体感として謎。すごい。
やはり面白い人間になりたいというのがある。
「なんとなくこいつ独特な感じがするぞ」という意味での面白い人間。
なりたいというよりは「結果的になっていたい」という感じか。
男とか女とかを主語にして語ることを自分のテーマにしたいという気持ちはマジで1ミリも持ち合わせていないが、相互に雑な認識を見かけると耐えられない。巡り巡って自分に災難が降りかかる可能性を感じてしまう。
たまたま見かけることが多いのが「男」「女」の話だが、「都会」「地方」でもそうだし、「同性愛者」「異性愛者」「無性愛者」もそうだし、「エリート」「非エリート」とかもそうだし、とにかくありとあらゆる「あっちとこっちの間の無理解」的なものがアレルギー的に無理。
わからないことはわからないのでわからないこと自体は別にいいんですけど無理解である自覚がないままに好き放題言っている状態が本当に無理。
私もわからないことはわからない、例えば「女」のことは複雑過ぎてわからない。ましてや自分よりわかってない人がわかったかのように語っているのを見れば「はァ~!???」と思う。
なぜ家族と不和だとタスクに集中しにくいのか? | シゴタノ!
わたしは妻に、どうしてもいくらかは「母親」を感じてしまいます。だから妻に「怒られる」と「母親に叱られた子ども時代」に引き戻されてしまうのです。
これ、こう告白できるのがすごいなと思った。多くは「意地でも認めたくない」という意識が働いて抜けられなさそう。
妻が夫に父親を感じることはあんまりなさそう。父親みたいな人と結婚したいと(結婚とかする前に)思うことはあっても。
けっきょく、妻に叱りつけられて、みじめでみっともない自分は、じつはべつにみじめでもみっともなくもないように思えたとき、妻との関係は正常化されます。
妻の方は夫を「みじめでみっともない」ものにしたくて怒ってるんじゃないんだよねえ。
ちゃんとできるはずの人だと信じているから「ちゃんとやってよ!」と怒るわけで。多分。基本的には。
みじめでみっともないと思っている相手と結婚なんかしないし。そもそもの話。
そこで子ども返りしてしまうのは、妻側からするとはっきり言って意味がわからない話だと思う。
そもそもの怒りの内容より、そうやって子ども返りするということがみっともなく映る…。
全ての夫がその感情を解消できることを願うばかり。
「単に生活上の諸々を合理的に進めたいだけの話」VS「自分のプライドが傷ついて嫌だ怖いという話」
噛み合わなさがすごい。
まあしかし、妻の方も結構な割合で理不尽であったりするので、妥当なラインは本当はどこにあるのかということはそれぞれ冷静に考える必要がありそう…。
折れちゃうから「怒られる」ということが継続してしまうけど、そもそも大の大人を「怒る」ということがその場に於いて妥当な選択なのかという。
妥当かもしれないが、妥当じゃないかもしれない。
夫が妻に対して「怒る」ということをしたらちょっとまずい気がするんだけど妻はいつまでも夫に怒って当然みたいな意識でいたりするの何なんだろうというのをぼんやり思っていたりなんだり。
よく我慢してるよね男の人達は。
でも「怒る」くらいはっきり示さないと応えない怠惰を妻が感じている場合もあり、怒られたくないなら怒る前の段階で「あ、やべ」と思えよという言い分もあってそれもそうと思う…。
疲れているのだとして、いや本当に毎日疲れ切っているとは思うけど、なんだろう、セルフプロデュースが下手みたいな要因によって深刻さが伝わらない感じがする。封建社会では存在した「威厳」をすっかり失ったことによって、妻の側があんまり無条件に労れない感じだよね。
夫に対して理不尽な妻、というものが個人的にかなり嫌い。
弟に対して理不尽な姉、も同様。
虐げて当然みたいな関係なんかどこにも存在しない。
「勝ち組」「負け組」が貴族か否かとかで決まっていた時代は、それはやはり相当苦しかっただろうとは思うけど、「勝ち組」「負け組」の分岐が自己責任になってしまったのは決定的に精神の荒廃を招いた感がある。
「個人の魅力」にかかっているというのは結構大変なことだし、そうは言っても本当の意味でその人の魅力を判定しているわけではなく「どこに金を注ぎ込めるか」になっているし、一般市民に紛れた貴族が一般市民を足蹴にして立っているみたいなところがある。
Twitterでは各人の色々な魅力が発揮されているけど、それが社会的な勝ちに繋がるわけではないのが普通に悲しい。
面白い人を面白いなと感じるけど、相手の性別を知っていても「性」をそこに感じないでいられるから素直に面白いと言っていられるところもある。性別問わず。
もし韓国みたいな社会になったら女性は生きていけないなと思う。少なくとも私は生きていけない。
傲慢の入り口は「取材しない」にあるのかも。
世が世なら一発で死罪になるようなことが、世が世ではないので死罪にはならないしそれどころか法で裁かれること自体がない、ということがある。
法で裁かれたなら、前科という重い枷が付いてしまうが、同時に「まあでも罪を償ったんだから」と擁護してもらう余地が生まれる。
一生法で裁かれることのない悪事は一生「けりがつく」ということもないのだ。
ゆうこりん(小倉優子さん)、なんだかんだめっちゃ可愛いし美的センスもすごいし素敵な人だよなあ。
プレバトでしか存じていないけども、光宗薫さんの作品はいつもすごいな~と思っている。自分ワールドを強調するみたいなことが全然ないのに、一枚層が違うところで物を見ているような感じがあってすごい。
「こうすると上手く見える」みたいな次元でやってない感じ。そういう程度の高さの話ではなく、「最も美しい表現は何か」を追求しているように思える。
リアルだ、正確だ、緻密だ、というのでは足りない。「表現」の世界にいるという感じ。
あまりにも圧倒的なのに、こういう番組にあんまりうますぎるやつがいるとさ~みたいな気分に全然ならないんだよなあ。
辻元舞さんとの切磋琢磨感があるからかもしれないし、アンミカさんとか田中道子さんとか千原ジュニアとか食らいつく人たちもそれぞれの個性で傑作連発するからかもしれないけども。
うますぎるやつがいると云々とかいうしょぼい感想なんか「もっとこの人の作品を見たいな~」という気持ちの前では塵芥同然。
「虚構と現実の区別がついていない」というフレーズを随分前に聞いたが、当時は「現実に虚構を持ち込んで非現実的な思考・言動を取る」ということを主にイメージして使われていたような気がする。
しかし昨今感じるのは、「虚構に現実を持ち込みすぎ」ということの方。それは作風がそうというのではなく、読み手の態度の話である。もしかしたら「現実を持ち込んだ虚構」が増えていることでその傾向が加速したというのもあるかもしれないが、それはデータが私のもとには何もないのでただの憶測の域を出ない。
最近見たのは、明らかに現代ではない時代(具体的には江戸時代)を舞台にした話であるのに、その中で登場人物が言った「これは女がやることじゃない」的な台詞に対して「男尊女卑だ!」と腹を立てるような感想。その描写が現代で登場したり、その描写が現代に残る男尊女卑思想を強化したりするようなことがあればそれは確かに非常に不愉快だが、その感想に対しては果たして「虚構である」という感覚を確かに持てているのだろうかと不安にならざるを得なかった。
しかも、既に相当気を使ってマイルドに表現されていたように思えて、むしろその作品の方がアリバイ的に「江戸時代なのだから男尊女卑を描かないとリアリティがないと言われるだろう」と考えて仕方なく差し込んだ台詞に見えた。実際のところはどうなのか私には知る由もないが、虚構であることを踏まえれば(というか現実にあってさえ)個人的には気分を悪くするような描写ではなかった。
この感想のことから言えば、「虚構に現実を持ち込みすぎる」ことの原因のひとつは「現実を知らない」からだろうと感じる。現実を知らないから目の前にあるその虚構がなぜそこにその形で存在しているのかがわからない。虚構としてわざわざ描いているということの意図を読解できない。そして自分が体験している半径数メートルみたいな世界の「現実」とのギャップに怒る。
現在の社会がどれだけの努力と試行錯誤によって改め続けられて出来てきたのかを知らない。これは物事を認識する上で致命的である。
キャラクターに対して常に「人として真っ当か」という観点でのみ評価するのってどうなんだろう。そういうのは現実世界で間に合っているのだが…。
現実世界での生活が実質暇だから虚構についてそんなことが言っていられるのかもしれない。
「それどころじゃない」と言うくらい必死になることがない。
女性キャラクターの二次元イラストに脊髄反射でブーブー文句言う人とかも日常生活実質暇そう。(偏見)
そういえば、フィクションの登場人物・キャラクターについて何か不快に思った時、自分の周囲は「こういうやつ現実で見ると本当嫌なんだよなあ」というふうに言うのに対して、時々見る自分と噛み合いそうにない人々は「このキャラ嫌い」と言う。
どうも本当にその登場人物・キャラクターに対してヘイトを向けているらしい。存在している次元違うのに。
でも登場人物・キャラクターに対して推すとか嫁とかいうのを「普通」とするならば、直接ヘイトを向けるのも「普通」ということになるのだろうか。
ただ、登場人物・キャラクターを好きであるということには次元の違いに直面する悲哀があるけど、ヘイトは次元の違いを意識すること自体がない気がする。こいつ嫌い、で終わる。
フィクション(のうち実写でないもの)での正しくなさに対して、そのフィクションがフィクションとして楽しむものとして存在しているにも関わらず本気で不快に思うのは、虚構と現実の境界がゆるゆるになって自分が虚構に入ってしまっていることに気づいていないということになるのではないか…。
「そのフィクションがフィクションとして楽しむものとして存在しているにも関わらず」という断りを入れたのは、「啓蒙のためのフィクション」は別だという意味です。
例えばマイノリティの実情を知らせたいという動機によって描かれたフィクションが、肝心のそのマイノリティにとって冒涜だということがしばしばある。それはまあ駄目よね。駄目だと思う。
エンターテインメントはエンターテインメントですとはっきり示してそういう了解を取ることによって、感情的にある程度まで許されている。
真似する人間が明らかに多いと予見される状況で特定の属性を虐げる表現をしたら非難されるだろうけども。
線引は曖昧である。
Wikipediaに寄付した。少額だけど。
今まで寄付したことなかった(散々利用しておきながら申し訳ない)。
外国がどうなのかはわからないが、日本は「外に見せたいもの」と「内で楽しみたいもの」の間にはっきり境界線を作りやすい気がするな…。
内で楽しむなら楽しいものを、外に見せようとされるとなんかすごく不愉快になるということがよくある。
「楽しい」と感じるもの自体をイコール「低俗だ」と認識している層というのも分厚く存在していそう。
誠実でも「ズレ」があるとコミュニケーションを拒否される悲劇が起こる。
相手からすると屈折率がおかしい、みたいな。
入射角と反射角がズレているので、打ち返された球を拾いに行くのが相手にとって大変な苦痛になる。
頑張って打ち返しているのに。
努力が空回りしている夫婦にありがちなこと。
なんだかんだ今までで一番オリンピック観てる。
女子ソフトボール、スーパープレーが日本にも米国にも出て面白かった~
ペアやチームで何かをしていて素晴らしい結果が出たというときに抱き合って喜んでいる光景は微笑ましくて良いなと思う。
自分自身がそういうふうに誰かと抱き合って喜べるほど誰かと一緒に何かに取り組みたいかというとあんまりそうは思わないけど、見ていて気分が良いなとは思う。
あと多分自分はそんなにテンション上がらないと思う。何かを成して喜んだとしても。
人と身体的に接触したくないという潔癖的な反応が元々あり、そっちが勝ってしまう可能性がある。
手のひらで相手の身体に触る、相手の手のひらが自分の身体に触れる、までは全然抵抗ないけど、それ以上の身体的接触が生理的に苦痛。ハグはかなり厳しい。
健闘を称え合っているのも良いよね。敬意を感じる。
礼儀としてやるほうが良いからやるというのではなく、つい称えてしまう、称えずにはいられないというのが良い。
読点が多いってどういうことなんだろうと今ぼんやり考えていたが、要するに、今、自分が、まさにこの単語で、この文章を、表現している、ということが、当人にとって、とてつもなく、大事になっている、ということだろうか?(全文節を強調している?)
全文節を強調したいということはなくもないので偶に読点が多い文を敢えて書くことはあるが、強調というのは他と差をつけるから成り立つことであって、全部強調したら単に「最初から太いフォント」で書いているようなものだろう。
大抵の場合、その人がそこにその単語でその文章を書いているということは、他の人にとってどうでもいい。強調するほどのことではない。
そのように書かれた文章を読む機会ってほとんどないはずなのにどうしてそう書いてしまうのかはやはりよくわからない。
つい見知ったものをコピーしてしまう、という力が働くような気がするが、それが働きにくいために毎度一から文章を構築している感じだろうか。
それだと文章書くの結構大変なんじゃなかろうか。大変だから念を押すような格好になってしまうのか。
逆に読点を打てないらしい様子の文章も読んでいてつらい。
読み手の呼吸とか読み手の可読性とか一切無視で、ただ文章っぽく文字で書いたという感じがする。それは文章ではなくメモでは?
いずれにしろ人の文章の咀嚼が不足し過ぎだと思う…。
大量に読んでいても咀嚼できていなければほぼ意味がないので「本を読め」という忠告はやや短絡的。
自分に専門があるのになぜ専門外のことを「違和感がある」みたいなぼんやりした根拠で喋ってしまうんだろう。自分の専門のことだって慎重に話さないと間違うわけで、ましてや専門外の話なんか的確にできるはずがない。
そういう人々も自分の専門領域を専門外の人間に適当に論じられたら腹立つだろうに。
「自分の専門外の話をしてはならない」というのとは別問題であって、自分に影響力があることをわかっていながら変な話をべらべらしたら「知らないなら適当なこと言うな」という批判は浴びて当然だ。
自分はなぜ人に話を聞いてもらえるのか、ということは常に考える必要がある気がする。
何かの専門家なら、その専門での功績が支えになっているのであって、生まれた瞬間から偉いからなわけではない。
人に話を聞いてもらえる立場になった経緯から離れた領域の話をするなら、「離れている」ということ自体に批判が向くし、それを超えて人々を納得させられるだけの確かさがないと自分の人生に傷がつくのでは…。
「離れている」ことがなぜ批判されるかと言えば、本来その領域で影響力を持つために必要な関門を何もくぐらずにいきなり多くの人に自分の意見を届けることができてしまうからだ。関門をくぐったならくぐったことを示さないと信用されない。
Gitのブランチがなんとなくわかってきた。
Gitのコミットをうまくやって一部を更新しつつ一部のファイルだけ強制的に過去の状態に戻すということに成功した。
のらてつのGitレベルが1上がった!
広島平和記念式典の挨拶で噛むし行飛ばすしコロナを持ち出してくる総理大臣…。
暑いし総理となれば疲労も途方もないのだろうけど、ゆっくりでいいから慎重に読んでほしかった。
そもそもコロナは絡めなくてよかった。後世に全く別の理由で降りかかった災いによって意味が変わるものではないし。変えてはいけない。
NHKが桑子アナを重用する理由がわからないんだけどなんであの人を使うんだろう?
ドキュメンタリーの原稿読みは上手いと思ったけど、原稿にない話をしなきゃいけない場面でまともに話をしたのを見たことがない。
知っているアナウンサーの中で一二を争う軽率さだと思うけども。失言と言い間違いは数限りなく、咄嗟の言葉選びが基本的に無神経に感じる。
単に間違ったのではなく、人の誇りをヤスリでじゃっと擦るようなことをする。
衝撃で何も言えないようなことや呆れて何も言えないようなことが色々と起こっているが。
被害者意識を抱いて激しく狂っている人と、被害者意識はあるけど狂わずにいる人とで、その被害者意識を指し示すワードは同じとしても、見えている景色がどれだけ違うのかは意識して考えたい。
狂っている原因がどこにあるかで「被害者意識」の部分の重さが大きく変わってしまう…。
原因なのか引き金に過ぎないのか、多くの場合本人にもわからない。
どいつもこいつも馬鹿にしやがってモードのとき、(半ば当たり前だけど)馬鹿にしていない人間のことは全く眼中にないよね。
自分を馬鹿にしてこない人間は必ず「偽善者」か「自分よりカス」のどちらかだと認識しているのかなんなのか知らないけど。「馬鹿にしていない」を徹底拒否しながら「馬鹿にしやがって!」と狂われても誰にもどうにもできない…。
(精神が本来正常だとして)多分褒められない限りは抜け出せないのだろうけど、お世辞だとそうとわかったときにまた「馬鹿にしやがって!」になってしまうし、本当の意味で褒められる必要があって、それは褒められるようなことを、正しく褒めてくれる人の前でやらなきゃいけないわけで、それは余程の強運がない限りは自覚的に努力しないと叶わない気がする。
そもそもは家族や身近な大人から蔑ろにされたせいで、他人に褒められることが必要になるまでの間の備蓄的なものが全然なくて狂ってしまうのかなと思うけど。(備蓄云々はデータのない憶測)
うちあわせCast /thinkandcreateteck/第八十回:Tak.さんとるうさんとかーそる次号について
ライフハックって結局「ライフ」というより「アクション」のハックみたいになってしまっているよね。
伊東家の食卓状態。「裏ワザ」というカテゴリになっている。
ライフと結びつくというのはつまり心理・精神・信念の話だと思うんだよな本来。
自分らしい生き方に沿っているもの、ということ。自分らしさを守ることによって自分の生を守るという感じの。
行動+時間、という観点で考えていても一向に出てこないのが「生きる」というまさに根幹の概念、という感じがする。
仕事のフォルダに「おんせん」って書くのは面白くて参考になった。そういうことは考えたことなかったかも。
馬鹿正直に嫌な名前のままそこに置いてあり、嫌だなと思っていた。
「読みやすさ」の感覚って「勝負勘」みたいなとこある。
読者の脳内でそろそろこれについての注意力が薄れただろう、みたいな。そういうのはいちいちチェックする尺度が何かあるわけじゃなくて(見出そうとすれば見出だせるかもしれないけど)、うまい文筆家は「もうこれの話忘れてるよね」って直感でわかってそう。
小説だとそれがもろに「面白さ」に繋がってしまうけど…。
「ん?」と思わせたら負け。
「言語化」と「文章化」の違いの話でもある。「言語化」だけなら楽だよね。(逆に言語化こそが難しい人もいると思うけど)
(Workflowyは触ったことがないから「昨今のアウトライナー」をDynalistに代表させるけど)Dynalistに触れる前に階層化テキストとの戦いの年月が長きに亘りあったな。
階層化テキストはバレットがない(バレット的でない)ので見た目がどうこうとか「項目感」とかそういう話はない。
代わりに別の問題があるけど…。
シンプルに情報の管理を如何にするか問題。
アウトライナーの使い方ド下手問題の③以降の問題はいずれにせよ発生する。
Evernoteでノートブックをソートするために英数記号を使うの、Evernote使ってる当時はやってたけど、その余計な記号を付けている感が猛烈に不愉快だった。工夫すればするほど見た目が醜悪になっていくストレス。
Kakauは本当にすごい。
自分の思考というのは間違いなく「憤怒」が支えていて、それを切り離すことは多分できないんだけど、それを表現せずに抑えられるかどうか、あるいは表現しないことが果たして正解なのかどうか、というのは永遠の課題だなと思う。
せめて余計なストレスをもたらさないように形を整える、というのは現実的な解だと思うしそれを心がけてはいるけれど、やはり他者を侮る態度には憤怒をぶつけたくなる。「侮辱しても憤怒を浴びなくても済む」という成功体験が生じる事自体が許せない。
とはいえ直接ぶつけても何の効果もなく、それどころか自分の不利益が予見されるという場合には(大抵のケースがそう)、その憤怒はただ自分を発信源として自分の周囲数メートルみたいな範囲にもやっと放たれるだけのものになってしまう。その距離にいる人達に憤怒を見せても、ただ「近くに憤怒が生じていてしんどいよ~」になってしまうかもしれない。
ではちゃんと抑えるべきだろう、という結論に至ってしまうが、そうするとシンプルに自分の憤りはどこに向けたら。愚痴吐き大会を開催するしかないのか。
吐く場所を持っていないわけではないし吐いていないわけでもないけれど、自分に課した最低限のルールとして、誰の言動に対して怒っているのかを相手に伝えないということを徹底している。個人攻撃はしない。レッテル貼りとしての「こういうヤツ」という括り方もしない(していないつもり)。自分に攻撃の実績を作りたくない。ということで結果的にスッキリ解消はされない。
知的生産についての知的生産は、基本的には憤怒が関わる余地がないから自分をコントロールするための戦いが生じなくて楽だなと思う。
必ずしも「好きなこと」の話なら憤怒が湧かないというわけではなくて、好きなことだと気に入らない人間の暴挙に腹が立つ可能性も比例して高まるわけで、「怒らなくて済む領域」は「好きなこと」とは別の尺度でもって見つけ出しておいた方が良いと感じる。
「知的生活」の話になってくると一転して憤怒憤怒憤怒になる可能性があるので、やはり衒学の侵入を断じて許さない範囲を見つけ出すのが大事だなと思う。
ちょっと関連 文脈の訂正コストが安い人と話をする
なんでそんなに「憤怒」に満ちているかといえば、「呆れる」「憐れむ」ということを自分に許していないからなんですよね。
「呆れる」「憐れむ」は「上から目線」と直結するから「呆れたら負け」「憐れんだら負け」だと思っている。が、腹が立たない要素がないことによってもはや呆れる以外に無いということもある(最近話題の某市長とか)。
失言で大炎上の人々、テレビやネットを「自分の話をみんなに聞いてもらえるところ」としか思ってないのかな。「公の場」という概念を欠いているように見える。
そういえば「口は禍の門(口は災いのもと)」って最近あまり聞かない気がする(比較対象のない個人の感想)。人の尊厳を蔑ろにした大炎上ばかりだとそんな悠長なこと言ってられないか。
この人たちは「話のベクトルを変えること」を「謝罪」だと思っているらしい。
僅かでも譲歩したら「負け」であり「屈辱」であって、それほど嫌な思いをして恥をかいてやっているのだから「謝っているも同然」だろう、という感じか。たわけが。
実際自分に何か書けることがあるのだろうか、と考えるとなんか何もないなと思う。
「勝手に書くから勝手に読め」というスタンスでしか書けないのかもしれない。
書く人間になりたいというのはずっと思っているのだが、書けているイメージを持てたことはない。
根本的な問題として、「テーマ」が全く見いだせていない感じがする。強いて言えば「自分」で、あまりにも広過ぎる。
常日頃知的生産の話をしているかのようだけど、果たして知的生産を探求したいんだろうかという。
こういう時に「空っぽだな」と感じる…。まとめる努力が足りないんだろうかと思うけどなんかさんざんやってこの現状。
「全てに興味があって何にも興味がない」みたいな感じがする。
Chromeでファイルのダウンロードが完了しない問題が時々発生する。
なり始めるとしばらくそうなってしまうけど何のタイミングかで直る。そしてしばらくしてまた再発する。
Firefoxに逃避。
「与太る」という言葉を初めて知った!
1 口から出まかせを言う。与太を言う。
2 不良じみた言動をする。
「与太」「与太話」は知っていたが、その動詞形の存在は知らなかった。
「不良じみた言動をする」という意味はイメージできないなあ。
「写メる」みたいな感じで「日本語って昔からそうだよね!」という気持ちになる。
「料る」とかね。「料理(りょうり)」から「料る(りょうる)」って!
ちなみに「与太る」を発見した経緯は「紙の和英辞書で『よ』で始まる他の単語を引こうとしていて目に入った」です。
紙の辞書大事。
謙虚過ぎて卑屈になっているのもやりにくくて困るけど(正確にはそれは「謙虚」ではないが)、謙虚さが見えないのは普通に無理だなという普通のことを思う出来事があった。
性格が良いとか悪いとかいう以前に「鈍い」ならどうしようもないけども。
某夢の国がテーマのクイズ番組をちょっと見た。
某夢の国、というかテーマパークというものに全く興味を持てないのだが、その理由が解った気がする。
前提として、アニメにしろ実写にしろ、映像作品やそれに登場するキャラクター・人物というものに興味がないわけではない。
映画を見れば「おおー」と思う。緻密に計算された脚本・演出に感嘆したりする。
キャラクターも上手く作られているなと思う。ツムツムとかもやったりする。
が、テーマパークに行きたい気持ちは僅かにもない。
最初は「人がたくさんいるから嫌だ」と思っているのだと思っていたが、たぶんそういうことじゃない。
「この世界観に私も入り込みたい」という気持ちが本当に微塵もないことが根本の理由だった。
着ぐるみとか全然会いたくない。声優のライブとかも行きたいと思わない。一連の公演が作品としてBDに収められたものは多少見る気になるが、「場を共有できる」ということに何も魅力を感じない。
人間が人工的に作り出した夢に没入できない。雰囲気に酔えない。どういう人々のどういう努力によって今これがあるのかを想像してしまって、大人しくキラキラ部分を享受していられない。
「物語の主人公になった気分を味わえる」というようなことを欲したことがない。
「夢を見たい」と思わないから、夢を見るための場所には立ち入れないという感じ。
「お姫様気分を味わえる」とかいうコンセプトのものがあったとすると、「いや、お姫様がお姫様でいるにはどんだけ厳しい環境で生きなきゃいけないかって」みたいなことを考えてしまう。都合の良いところだけを切り取った「お姫様像」を思い描くことができない。
こういうギミックによってこういう演出ができるんですよ~という技術的な話は面白いと思う。
夢の裏にある現実に着目してしまう。別に大変さとかを知りたいわけではなく、現実としてのすごさを知ることに関心がある。
自然の素晴らしさを再現した施設とかは行きたいと思う。自然はまさに私が実際に生きている世界のものだから。
レゴランドは行ってみたい気がなくもない。レゴブロックは私にとって手で触れている現実であって、それがどうすごくなっているかを見て感心したい。
この「合わなさ」を言語化できるのは多分すごく便利なことだと思う。
テーマパーク嫌いの他の知人は夢を見ようとする人をバカ扱いしていたりするんだけどそういうことじゃないでしょと思う。
なぜ合わないかを言い表すことができれば、「自分の方が、なぜズレているか」がわかる。
相手が標準で自分がズレていると思わなくてはいけないとかいう話ではなく、万人がズレているわけで、相手のズレよりまず自分のズレを認識しよう的な意味合い。
Notionを昔一瞬触って離れたのだが、やっぱりまた使ってみようかという気になってきた。
データをどうこうしたいというより、見た目を楽しめる範囲で遊びたいな~という感じ。
YouTubeの再生リストを整理した。
地味に長年のもやもやが解消した。
頭に記号をつけることを思いついた(自分の関心の種類を整理することに成功した)
再生リストは再生のためのリストであってブックマークではない。
日本語が怪しいとその人の判断全体が粗忽な可能性を感じてしまう…。
スラングとしての言葉の崩れは「場に応じて適切に判断した結果」の崩れとも言えるから別に気にならない。
そういう表現をしている人を他に見たことがあるのか?と感じるような怪しさには身構えてしまう。
読点が異様に多くて文節ごとに区切っているような文とかも、果たしてそうやって書かれた文を読んだことがあるのだろうかと疑ってしまう。
粗忽だと「人として駄目」という話ではないが、粗忽では困るような話はその人にはしにくくなる。
ScrapboxによってCSSの使い方をなんとなく理解できてきたので、ローカルのhtmlでゼロから見た目を作るということにチャレンジ開始した。
何の必要にも迫られていないので完全なる娯楽として。
強いて言えばブックマークリストを自作したい。
Twitterで見かけたとあるサイトを見ていて、目指している方向に共感しないわけではないのに言葉選びが意識高すぎて目指す方向が間違っているかのように感じてしまうパターンをどう捉えたらいいのだろうと思った。
エモくしようとしている言い回しに拒否感がある。でも人が動くのはエモいからなのだと思う。
エモに頼らない動機というのはつまり「心底納得したから体現したいと思った」ということだと思うけど、「心底納得する」のは大変なので、「心底納得できそうな予感がある」をエモによって作り出すことで人を動かしている。
なんかこう、「万人が幸福を感じられる世界を目指す」というのは私も本当に考えていることなんだけど、「幸せ」「幸福」という単語を重要なキーワードとして何かを語るものに対してはどこか身構えてしまう。
言葉遊び的な造語系の語り口が総じて嫌だなと思う。具体例を挙げると何について言っているかわかってしまうから例を挙げにくくてもどかしいが…。長いフレーズを短縮して頭文字取った系はそんなに気にならないけど、土台となる単語から創造する必要は感じない。
どういう状態を言いたいかというと、例えば「藍色」を大事なキーワードとして取り上げることになったとして(実際はもっと抽象的な理念を示すような単語が用いられる)、愛を引き寄せる色だから藍色とは「愛色」なのだとか言ったとする。この手の造語が鳥肌が立つほど苦手。
その理念を共有する人しか知り得ない合言葉的な言い回しを常用するのは感覚として多様性や自由と相容れない。
言葉というのはとても大事だと思っているが、言葉に頼るとその解釈を云々することに無限に時間を溶かすことになる。特定の言葉の意味に依存しなくていいように、様々な言い回しによって概念を言い表せるべきだと思う。表現は多様であればあるほどよい。
賛同する人がそれぞれ自分に合った全く別の言い回しをしてもみんな同じことを語っているのだとわかる、その方が素晴らしいことに思える。
公開日記として書けるような類のことをツイートで放出してしまっているから、その後ツイートをどうしようかとか公開日記に書く話はどうしようかとか悩むことになっている気がする。
既に文章として「読める」ように整えてしまっているものをどう扱うかという問題がある
アウトラインの部品としては扱いにくいと感じる
ひとつの解決策として、上記のように視覚的に特別扱いしてアウトラインに組み込まない作戦
認識していた不快感として、Scrapboxのページ内ではアウトラインに組み込まれずに単発で文章が漂っているのが中途半端で気持ち悪いというのがあった
多分「幅が広すぎる」のが問題 左右に余白がない
ねぎま式のメモにも良さそう
リンクにfaviconをつけると見やすくかわいいと思った
Noratetsu Labのリンク一覧部分
/noratetsu/のらてつ
「他人を許せない人の脳」で起きている恐ろしい事 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
思春期~二十歳あたりは私もかなり正義中毒がひどかったと思う
鬱傾向だが鬱になりきっていないという状態が一番過激だった
今はそれほどでもないと思う
抜けた理由としては
鬱になって自分が他人から存在を許してもらわないと生きていけない心境に陥ったから
他罰性の根源となっていた親の価値観を自分の中で自力で粉砕したから
コンプレックスについて学んだ結果、精神的自慰が目に見えるようになり、そういう言動に対して生理的に強い嫌悪感を抱くようになったから
- 自慰と自覚してやっている人はかえって気持ち悪くないけど「社会のため」と言って自慰になっている人はかなり不気味
自分をより賢く見せかけようということについて
自覚的か無自覚かはそれぞれだろうが
どうやったって自分より賢い人間には全てバレるという現実を知れば、見せかけには何の意味もないとわかる
自分より賢くない人間を騙して満足できるものではないから無限にやるんだろうし
見せかけようとしている気持ち悪さまでもがバレるのはかなり自分の尊厳を傷つけると思う
長いコードは別にScrapboxに直接書いておかなくてもいいのか
GitHubの公開リポジトリとか Gist…はよくわからないところがあるので保留
settingsは外部ファイルをインポートできないので直接書くとして、何を含んでいるのかを閲覧者にわかるようにする時にある程度の長さがあるコードはまとめてGitHubに置いておくとか
Scrapbox内で細かくページを分けるとメンテナンスが面倒になってしまう問題…
アウトライナー風に折りたたみで表示できたらいいんだけどな
GitHubっていうか、ブログにページを作ってあれこれやるという手もあるか
根本的な問題?として、Settingsの状態が私自身のための形になっていない
実際の管理の場がローカルのSCSSになっているのでそれはそう(SCSSを覚えた)