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【うちあわせCast】アウトラインを使って書くということwith鞘戸コウさん【第百三十六回】
第百三十六回:Tak.さんとコウさんとアウトラインを使って書くことについての疑問 - LISTEN
第百三十六回:Tak.さんとコウさんとアウトラインを使って書くことについての疑問 - 知的生産の技術
とても面白かったです。
いつもお二方の間で共通の文脈があるからこその鋭い考察を興味深く聴いていますが、ゲストが新しい風を吹き込んだ時に生まれる「盲点だった」感にはまた別の面白さがあるなと思います。
3:12~ Workflowyにプレゼンテーション機能が追加された
スライドは演出できる機能があるからそれを頑張るために時間が取られるんだ、そもそもそんな機能がなければいいんだ、のくだり
本当にそう。
なんというか、そういうのはテレビ番組がやればいいのであって、日常のプレゼンテーションには要らないですよね。プレゼンはエンタメじゃないのだ。
8:12~ るうさんのメモ環境の話
私も色々興味深く思ったのでどこかにメモを書きたいところ。
まずVivaldiをScrapbox専用ブラウザにしているということに「そういう手もあるのか」という驚きがありました。
21:00~ 「運頼み」問題
言及とご感想ありがとうございます!
多分「書ける時はすいすい書ける」ということがかえって「運頼み」の苦しみを生むのだろうなと思います。
書く能力がないわけではないのに、例えば「これについて書いて」と言われたら書ける保証が全然ないということで生じる無能感。自分の能力に縋れそうで縋れない苦しみ。
21:40~ 手法に乗っかることで安定的に書けるんじゃないか、のくだり
一時期文章術の本を探し回っていたのですが、その時の私が求めていたのもまさにそれなんですよね。でも大抵の「文章術」は、そういうことではなく、文章の組み立てとか読者を説得する書き方を説明している。それはもちろん大事ですが、それはもう目的が定まっているステージの話で、読んでも読んでも結局ピンとこないという。
つまるところ核にある問題は「文章術」の問題ではないのだと思いますが、自分の気持ちとしては「文章が書けない」という表現にならざるを得ないので、「文章の書き方」を求めてしまうという。
23:00~
うちあわせCast133回を聞いて考えたこと - 思考遊戯の森について、これを文章にするのは難しい、という話
他人の目で見ると、各ページの項目に全部句点をつけて繋げればそのまま文章になるんじゃ?と思うわけですが、そういうことではないんですよね多分。
関連するようなしないようなですが、「アウトライン(らしきもの)は作ったが記事にならない」ことについて前にちょっと考えたことがあったなと思い出しました。
24:02
そうですね。だからフリーライティング、その僕らが言ってるフリーライティングは、その「書けない」、そのコウさんのように書ける人でも「書けない瞬間」があると。で、そのときになぜ僕は書けないのかっていうところから始めましょうみたいな感じなんですね、要するに。
そうですよね。私も、(フリーライティングをやろうと思って頭から出しているというのではないですが、)フリーライティング的に自分の状態に焦点を当てるところからスタートする習慣ができたことで書きやすくなりました。
例えば「書けない」という状態の時に、いきなり「どうやったら書けるのか」に行くのではなく、「今の自分に於ける『書けない』とは何か」からスタートする。
私の場合はそれ自体を記事にする趣味があるのでそれが習慣づいた、ということになると思います。
26:05
Tak.さんの課題(?)について
提案とか意見というわけでは全然ないんですが、なんとなく思ったのは、共著とか編集者の強力な導きというのはこういうところで威力を発揮するんだろうなと。
後半でも少し内容の強調についてのお話がありましたが、全く同じことを書いていても強調するポイントの強弱で読み手の頭の中での残り方が違うという難問に対して、それを的確に指摘する存在がいると本の印象というのは色々違ってくるのでしょうね。
30:23
例えばあの記事にコウさんが全面的に満足しているのかしていないのかわからないですけど、仮にしていなかったと、仮にしたときに、そうやってこのアウトラインの形で書いてしまったことを俯瞰したときに、自分はこういう流れでこういうことを書いたんだなと。
(中略)
まずは文章を普通に書いてみて、その後で何を書いちゃったかを確認して、それで良ければもちろんそのままいけばいいし、良くなかったらどう良くないのか、それでどう直したらいいのかっていうのを考えやすくなるっていう、(アウトラインというのは)そういう装置なんじゃないかなという気がしてますね。
そういえば、自分が文章を書いた時には、自分なりに文章の出来を点検する尺度があるわけですが、自分が自分の文章に当てるべきその物差しがいかなるものかを考えるというのも必要なことかもしれないですね。
問題があるとかないとかいうのを判定する基準がないと、見直してもどこにもいけないので、「こういう文章は嫌だ」チェックリストみたいなものを持っておくとか。明文化しないとしてもイメージとして持っておくというか。
42:38
慣れてない作業がきっとあって、文章を書く中でも書き換えるとか粒度を整えるとかっていうことは多分あんまりこれまでやられてこなかったと思うんですよ。なぜやらなかったかというと、書けちゃうからなんですね。初めからそれなりに形の整った文章が書き出せてしまうから、もうそれ以上手を加えるという、ある種のトレーニングをしなくても済んだ。
なるほど。
48:27
時期によってメルマガの書き方って違うんですけど、1週間に5つの記事を載せていた時期は、1日1記事2000字くらいなので、1日に1記事書く2000字書くを1週間、月から金まで5日続ければ一応メルマガ1号本が出来上がるじゃないですか。
で、それぞれの記事は1回ずつ切れているわけですから、僕はそれを終わりまで書いてるわけですね、その1日ごとに。で、書き上げて完成するっていうパターン。で、たまに1号まるまる同じテーマの回とかがあるんですけど、あれは1日で書いてます。
3日に分けて3000字で1万字とかじゃなくて、1万字の記事書くときは朝から書いて夕方までで1万字に仕上げてる。だから結局連続性でないと書けないっていう感じがあって、いかにそれを担保するかっていうのを苦心してるという感じですね。
なるほどなるほど。まあやっぱりそうですよね、流れ派としては。だから村上春樹さんの書き方には信じられない気持ちになる。
50:19
だから、ドライブする気持ちっていうことが多分一番大切で、というか、それが文章を書くことの意義だと思うので。文字を埋めることは多分文章を書くことの意義じゃないと思うので。
ドライブする気持ちと筆が乗る気持ちとのタイミング、リズムを合わせていって、文章が書けたらもうそれでハッピーで、時間が取れなかったら書けないのもしょうがないし、気分が乗らなかったら書けないのもしょうがないっていう、ものすごく諦めの話が多いですけど、この仕事をずっとやってきて感じるのは、人間というもののどうしようもなさですよね。コントロールできないものなので、その性質に合わせてぼちぼちやっていくしかない。
「ドライブする気持ちと筆が乗る気持ちとのタイミング、リズムを合わせていって」というのが重要なポイントだなと思いました。努力すべきところは、他の何でもなく、この「合わせていく」ことだということ。
1:01:33
思うのが、アウトライナーの中にメモの断片をどんどん蓄積していって、これをあれこれいじると文章ができたりするといいなって思うんですけど、できないじゃないですか大体それって。
メモの断片を蓄積するってそれカードでも同じことが起こると思うんですけど。むしろそのメモの断片というよりも書きかけの記事でそれをやったほうがおそらくうまくいく。
これはもう全然経験からしか言ってないんですけど、何でかわかんないんですけど、書きかけの記事っていうのはやっぱりどこかに向かいたいという、倉下さんの言い方で言うと矢印があるんですけどね。それが途中でブツッと切れてるんですけど、矢印があるから、それが指し示している方向にある何かを別の機会に書いたときにそれと接続しやすいとか。もしくはその同じ方向を向いている矢印を持った別のもの、同じ方向のものだから、接続というよりも並列しやすいとか、そういうことが起こるんですよね。
でも最初からこれはメモ、メモの断片と思って書いたものをいくら貯めてもそういうことってあんまり起こらないんですよね。だからむしろ何か書きかけの文章の方が何て言うんでしょうね。生産性が高いという言い方変ですけど。
これはわかる気がします。
なので、「一度Twitterに呟いたもの」は再利用しやすいんですよね。矢印ができているので。
で、再利用しやすいものをTwitterにどんどん放流できているからと、非公開のメモも充実するに違いないと思っていると、ところがどっこいうまくいかない。矢印の力が弱いのでしょう。
1:11:01
削除する勇気がないから未使用に落とすと思ってたけど、未使用に落とす勇気がないときはどうしたらいいんだろう。
私が結局、文章を動かすということに慣れていないために、未使用に落としてしまったらもう出番がないみたいな感じになっちゃうんです。
これ、もし「未使用」が視覚的に下ではなく上とか横にあったらどうなんだろう?
「落とす」って言うともうそこから這い上がってくるのは大変な感は確かにあるんですよね。
私は「使うかもしれないもの」は上に、明らかな「没」(別の書き方で言い換えたのでもう要らなくなったもの、矛盾が発生してしまったので書けなくなったものなど)は下に置くことが多いです。
1:23:02
ブログはそんなにこなれさせようとしない、かなりぎこちない状態をむしろ前に出してたりすることがあって。そのぎこちなさのことを時々褒めてくださる方がいるというか、例えばそのコウさんがどこかで独特の空気感と言っていただいていることもあるんだけど、それってぎこちなさのことかもしれないんですよね。
そうですね。だから流れ派で言うと、流れてなければダメだし、文章を書くときは流れで想定しているから、飛躍のあるような繋がりを見ると「とても自分はこんなん書けない」っていう感じがするんですね。流れ派からすると。なんかすごい技法が後ろに働いているように見えるわけですよ。
そうそうそう。まさに「なんかすごい技法が後ろに働いているように見える」んですよね。
この件について前に書いた記事→飛躍を作るということ、飛躍を作れないということ
1:27:53
でもやっぱりモチベーションは上がるけどプレッシャーは上がらないなんていう楽園は多分なくて(笑)、上がっていくものなので仕方がないですね。
厳しい現実…笑
1:29:30
(コウさんは)やっぱり書けてるんですよね。ただその、実際に人が見て書けてるって思うことと書き手が自分は書けてるって思うことってやっぱ違うんですよね。だからそこのせめぎ合いをどう解決するのかって結構書く人にとって重要なことなんだなと思いますね。
人の文章だからこんなことが言えるけれども自分のに関してはそう思えないんですよね。
あっはっはっはっは(笑)
他人がいるから言えることっていうのがあって自分のことを棚にあげてはいけないっていうのでは多分何も教訓的なものって生み出せないと思うので。お互いに棚にあげてお互いのことをアドバイスし合うというのは大変良いことではないかなと個人的には思いますね。
お互いに棚に上げてアドバイスし合うというのは本当に重要というか、倉下さんが仰る通り「大変良いこと」だなと思いますね!
やっぱり批判的な目を向け合うみたいなのは辛くて、「お互い棚に上げる」ことが許される、つまり「仲間」的な間柄でお互いに言及し合うのは大事だと思います。(not「容赦なく言う」)
面白かったです!